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恋の代名詞は、ピスタチオ。

ゆるんだねじをたずさえた生き物がそこにいる。
ストッパーをはずしたピアノがメリーゴーランドになって。
まぎれこんだみたいにジャジーな音とともに大きくゆらぐ。

弾いている彼も楽しんでいるみたいにくるくるとそのまま
円を描いているように私は見えた。

古い木の甘い匂いが、校舎を纏っている。
ある日の放課後。校庭の喧騒やテニスボールが、コートで
跳ねる音に紛れて、聞こえてきたピアノの調べ。

私はその音に導かれるようにして、重い木の扉をゆっくり
開けた。

グランドピアノの前に座って、ピアノを弾いているのは
赤坂先生だった。
ピアノの上にはなぜかピスタチオが一粒だけ乗っかっていた。

視線よりも耳が先にひきづられてゆく。

知ってるその曲、聞いたことがあるって思ったら、私はもう
グランドピアノのそばまで行っていた。

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なぜだかわからないけれど、終わると哀しくなるから
おわらないでって思いながら聞いていた。

赤坂先生は私が部屋に入ってきたことに気づいて、指は
鍵盤の上のまま視線だけを私に預けて、すこしめくばせを
した。

いらっしゃいの感じで軽く頭を下げた。 
私もぺこりと挨拶をする。

言葉も発さないまま赤坂先生と私とピアノがまるで3人
いっしょにいるみたいに、その空間に漂っていた。

そうあのピスタチオも一緒に。

その頑強そうな陽に焼けた指がまっしろい鍵盤の上を
すべってゆく。

右手の指がいそがしく、右に右に移動して。
このまま先生の指がずっと右にいったまま帰って
こなければ、曲は終わらないのに。
だから、ずっとこのままあの指が右に右に迷子に
なりますように。

そう祈った。
 
一曲が終わるたびに、どうしてこんなに不安を
感じてしまうのか、わからない。

その日から私は赤坂先生との別れをもう予感して
いたのかもしれない。

何日も放課後音楽室へ通っていた。
音楽室の扉の前には掃除中の札を掛けておく。

はじめて聞く曲の途中で赤坂先生は指の動きを止めた。
そしてその指が、私の髪をわける仕草をしてきたので
ちょっとだけ身を引いた。突然で胸がどうにかなる
かと思うぐらいだった。

「ごめん、鴨下、きみ、ピアスしてるだろう」
って耳たぶに視線を放った。
私はあわててピアスの穴のあたりを指で隠した。
「ごめんなさい」
なぜかあやまったら先生は笑った。
「俺は風紀委員じゃないからね、っていうかこの曲が
ピアスっていうんだよ」

はじめての曲はピアスって曲だった。

雨上がりで気分がいいな
でも空回り中です
空で待ってる君に向かうよ
胸のカウントダウン数えて待ってて

そんな歌詞だった。

赤坂先生が照れながら歌ってくれた。
ピアスを弾いてくれている時ピアノの上のピスタチオが
少しゆれたような気がした。

そして弾き終わった後、赤坂先生がじぶんの耳元を
なにげなく指さした。

私がおそるおそる先生の耳たぶをのぞくと、ちゃんと
ピアスの穴だけがそこにあるのがわかった。
先生のプライベートが少し見えてなぜか嫉妬した。

先生クビになるよって私が言うと、先生はかもな、って
いってふたりで笑った。

そして今日も放課後がやってきて。

先生のピアノの上の指が左に戻りかけている。
徐々にだけれど。さっきとは違う動きをし始めている。
もうすぐ曲は終わるんだなって思った。すこしだけ
こころの準備をしておきたい。

最後の一音を引き終ると赤坂先生は、私の顔をみて
微笑んだ。

終わったあとの刹那。ブレスブレスの間。
あっ拍手しなきゃと手をあわせて拍手した。
叩く手の音が、教室の壁や天井に跳ね返って響いてゆく。

その後で、私の気持ちをやわらげようとしたのか
猫ふんじゃったが聞こえてきた。
なんで猫ふんじゃったなんだって、想っていたら
赤坂先生が視線だけで笑った。

「鴨下萌さんと僕は同じ転校生だね」
先生も同じ年に赴任してきたので、始業式の日にそう声を
かけてくれた。
それが赤坂先生と初めての会話だった。

なぜかその日、赤坂先生と出会った始まりの日を
思い出しながらその曲を聴いていた。

「今の曲知ってる?」
「聞いたことがある。戦場のクリスマスかな」
「はい、そうです。戦場のクリスマスです」

赤坂先生は、クイズ番組の司会者の風情で、タイトルを
繰り返した。

気づくと私いつからか赤坂先生にため口きいてた。
それがいつだったかもう思い出せないけど。

悲しいメロディってどうして悲しく感じるんだろうって
思いながら、聴いていた。
 
その日の赤坂先生はすこしだけなにかが違っていた。

「ピアノの鍵盤は88あってね。白鍵と黒鍵をあわせて88
無限だね。無限だけどこれは音楽が無限じゃなくて、弾いて
いる人が無限なんだなって。音楽は弾けば終わるけど。人って、
無限の選択をしながら生きてゆくんだなって」

なんてねって言いながら、それは『海の上のピアニスト』
という映画のセリフをもじったんだって、照れた。

それからしばらくして赤坂先生は、学校をやめた。

あの話のことが忘れられなくて、私はわけもなく
頭の中で88までの数字を数えるクセがついていた。
88が来るとそこでなにがあっても止める。
そうすることで赤坂先生とつながっている気持ちに
なれるから。

ある春の日の放課後。
私は音楽室へと向かった。
赤坂先生のいない音楽室はいつにもましてとても
静かで。
ピアノの鍵盤蓋を開けて私はピスタチオのたくさんの
粒をひとつずつ白鍵と黒鍵の間に置いて行った。

1からカウントして88までをカウントしおわると
私はちいさな声でつぶやいた。

居なくなるのはずるいけど、赤坂先生のはじまりを
ずっと応援してるよって。

その時、先生が好きだって言っていたラの音の
ピスタチオがころんと音楽室のやわらかな床に、
音もなく転げた。

ラの音って、オーケストラのチューニングの音らしい。

赤坂先生もきっとなにかをチューニングしたくて、
ここにいないだけなのだ。そう思うことにした。

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さっき拾ったばかりの握りしめていた一粒を、
手のひらのなかでもっともっとつよくむすんだ。

そして、ピスタチオって恋の代名詞だと、ちいさな
声でつぶやいてみた。

私の耳の奥ではさっきの「猫ふんじゃった」だけの
メロディがずっと回り続けていた。

音の夢 さまよいながら ひとりでつかむ
耳だけが こころひとつに 溶けてゆくまで


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夢の扉を開いたピスさんに、このショートショートを捧げたいです。

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