藤井風の風に、吹かれ続けていたら…。
なにかに癒されるってどういうことだと、
なにかがわたしの中に入ってきて、よしよしと
背中をさすりながら声かけられたような瞬間って
なんなんだって。
ずっといぶかし気に思っていた実は。
でもなんていうか、この年齢になってなにかにすがる
ようにそれを欲していることに気づいたのはnoteを
書いている時だった。
わたしのnoteの記事のスタイル、ま、そんな格好のいい
もんじゃなかだけど。
最後にはyoutubeを貼り付けるのが癖になって。
それがいつ頃からなのか忘れたけど。
とにかく貼り付ける。
いつからか、音楽にわたしは救われるようになっていた。
記事を書き終えてMVを貼るとしばらく
呆然と聞き入ってしまう。
みっともないけれど、それを聞いていたら涙した
ことがあった。
それは藤井風だった。
藤井風を教えてくれたのはやすこさんだ。
その時はなんていうか、そういう人がおるんやね!
ぐらいののりで。でも暑苦しくない名前なので
すぐに覚えた。
そしてそれから何か月も経ってから、ふいにわたしの
視界の中に藤井風が飛び込んできて、この人何?
これが噂の藤井風やんってなって。
気が付いたらわたしの記事は藤井風祭りの如くだった。
この記事を書き始めた頃のわたしの心はちょっとふらふら
だった。
noteする前まではフラットだった心の器にいきなり
やさしい水が注がれて涙腺が一気に解放してしまった。
滂沱の如くだった。
そして、無防備のまま彼の曲に耳を澄ませた。
歌詞を目で追う、メロディを耳で味わっていたら
えらい目にあった。
この歌詞に耐えられなかった。
なにを想って耐えられないのかわからないぐらいに、
わたしは藤井風の風に巻き込まれていった。
たぶん巻き込まれたかったんだろう。
そして勝手になにかを誤解しながら、わたしの人生は
誤解だらけだったんじゃないかとか想いを馳せながら、
それでも痛さ見たさで藤井風の風に巻かれていった。
そしてこれはわたしの大好きなクリエーターの方への
ラブレターだ。そして藤井風がyoutuberだった時のМV。
これはカヴァー曲。
そして若かったあの頃の何者かにならなければ、その道を歩くことさえ
許されないと思っていた元恋人を想って書いたものにも藤井風がいた。
そしてあの頃の彼をほんとうに失った喪失感を味わって、
わたしは藤井風の曲のタイトルに自分を委ねていた。
そして年の瀬が迫ってきていて。今年の出会いに感謝しつつ
はりつけたのがこれだった。あまりにいろいろなことに対処
できずに翻弄されてゆくのがわたしの常だがひさしぶりに心が
揺れていた。
そしてそれでも足りないのかもうええわな気分が追いかけて
きていた。
そして、ふたたびふりかえる。緊急事態宣言のあの頃を。
そして去年あまりにも埋められない想いを引きずり続けた
罰なのか何かを引きずり倒してこういう記事を書く。
わたしはこのようにして藤井風の風に吹かれまくった。
優しさに触れて、傷口に触れてしまって、その傷から目を
そらすためにもうええわって思って、時間の経過と共に
そんな自分に腹が立ってきて何なんWってなったけど。
まだ何かがくすぶっていて、ほんまにもう、あんた
いい加減にしいや、なんやねんキリがないからって
なったんだと思う。
これは、大喜利か!
藤井風の曲のタイトルは、ようできてる。
わたしの心のサイズに、いつもぴったりはまって
くれていた。
つまり、12月わたしは藤井風の風にあたるだけ
あたっていたらなんか癒されていたのだ。
癒されるっていう言葉。ほんとうは使うことに躊躇している。
でも他の言葉がみつからない。
耳から入ったリズムと言葉がわたしの心をすこしずつ
治してくれていた、そうとしか言えない。
そしてわたしはこの間、ソーヤー海さんという方を
新聞の広告で知った。
彼は言う。
みんな今の状況に疲れている。こういう病の中にいると
レジリアンスが低くなる。つまり回復力とか復元力とかの
意味らしいけど。
彼の言葉に触れていたらなにかにふたたび包まれてやさしい
気持ちが、戻ってきているようそんな気がした。
ここにやさしさとはどういうことかと英語で語る藤井風の
言葉を紹介したいと思う。これにも、わたしはやられた。
反対に、心がぼろぼろになるぐらいにもういちどやられた。
不意に出会った彼が、生まれてくれたことに感謝している。
そして藤井風に吹かれた後は、ソーヤー海の潮風にも吹かれてみたい。
いつからか つばさがはえた とぶものたちを
鳥とよぶ みえないつばさ そらとぶこころ
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊