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救われましたなどと2度と言わない。

街クジラがこの街にやってきたのは
栞が生まれる前だったらしい。

街クジラはひとりぼっちである日
発見された。

栞の住む町はGoogleにも把握されて
いないような街だけど。

かつてその砂浜に打ち上げられた。

街クジラが砂浜にうちあげられたとき
そのとき恋人だったひとたちはみんな
夜中に砂浜に駆けつけたらしい。

今は誰も訪れなくなった坂の上の街の写真館の
ショーケースにミイラみたいになって
飾られている。

そしておんなじ日にとある街では
ビルとビルの間に人がはさまっていて
だれも助けてくれるひとがいない人が
いたらしい。

みんなその時クジラを助けようとその
場所に集まったって、子守歌のように
聞いたことがある。

ビルの間にはさまったひとは、誰にも
気づかれないままだったとか。

栞は誰かから聞いたその話のことを
思い出しながら、どっちも助かると
いいのにって思ったことを覚えてる。

ひさしぶりに砂浜を素足で歩いた。
サンダルが砂に埋もれて、もどかしそう
だったので脱いでそのまま歩いた。

足裏にふれるあたたかい砂の感触が、
フェルトルームシューズを素足で履いた
時みたいに、ここちよくて。
なにかにつつまれてる感じが、ちょっと
新鮮だった。

春も秋も冬もそうかもしれないけれど、
とりわけ夏は風だったり太陽だったり
いろんな気配が、からだにじかにうったえて
くるので、おもしろいなっていまさらながら
思っていた。

こどもだった時、海でさんざん陽焼けして。

火照った灼けた肌がちくちくするパイル地の
Tシャツを弟とおそろいで着せられていた夏。

栞には弟がいた。

家族で帰省した時、鹿児島の祖父に玄関のところで
まちかまえていたように、ぎゅっとハグされた時の
いたいぐらいの肌の感触を思い出したりした。

祖父に抱きしめられた時、さっきまで日に
照らされていた背中や胸や腕が、こすれてかるい
悲鳴を弟とふたりであげたことは、いまでもだいすきな
栞の記憶のひとつになっている。

共に暮らしたことはないのに、誰の事よりもつよく
つよく思い出してしまうのは祖父のことだ。

記憶のりんかくがとてもあらわになる夏の
せいだろうか。

八月のまんなかあたり。

波の音と海の家から香ってくるお醤油の焦げる匂いと、
潮風のしめった風と。

若い女の子や男の子たちの狂騒も、雑踏で聞くときよりも
気にならない。

知らない誰かの会話の合間にぽつぽつと
子供だった頃の夏休みがさしはさまれながら、
ひたすらに歩いた。

そんな散歩をしていると、ゴーギャンの言葉じゃないけれど
ほんとうにどこにむかって歩いているんだろうって
そんな気がしてくる。

でも、歩いていることじたいが楽しくて、足をとめて
方向転換することがもどかしいぐらいの感じだった。

砂のあたたかさがずんずんとふくらはぎを通って背中を
かけのぼってゆくと、あの時の祖父の体温がよみがえって
くるようで、安堵する。

三十年以上も昔に祖父は死んでしまったのに。

栞はいまだに祖父との記憶にずいぶん助けられてるなって
気がしてくる。

いないのにいるようで。

なかなか手強いのだけれど。

その後、ひとなみにつらいことやかなしいことを
栞はすこしだけ味わった時にも、まるで祖父のハグは
処方箋のように目の前に
ひらひらと舞い降りて来た。

うまくいえないけれど、記憶にぎゅっとされて
いるような体感ってやっぱりかけがえのないもの
なのかもしれないなって
今年の夏はことさらそんなことを思っていた。

その時栞の目の前に、大きなクジラが波に運ばれて
きた。

あ、クジラ。

栞は声を出していた。

あの遠い昔ひとりはぐれていた街クジラを求めて
たどり着いたかのようなふぜいで
そのクジラは砂浜にほっとしたように
たどり着いていた。

隼人に電話しようって思った。

街クジラのはぐれてしまったクジラがここに
いるよって、助けられるわけじゃないことは
わかってたけど。

電話してちゃんと見届けたいと思った。

栞はすこしずつ歩をすすめて、そのクジラに
お帰りって声をかけていた。

owari


今夜も小牧幸助さんのこちらの企画に参加して
おります。いつもありがとうございます🐋

今回の作品は、大好きな小説家の柴崎友香さんの
『きょうのできごと』のお話を参考にさせて
頂きました。


 

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いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊