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寒い日、忘れたままの彼の服にアイロンをかけていた。

昔、聞いた歌。

寒いねと話かければ寒いねとこたえる人のいるあたたかさ

教科書にも載っているこれを、読んだ時。

正直なにがどこがいいのかわからなくて。

だから? って。

とても冷ややかな視線で、この歌のことを見ていたと思う。

あれの良さをわからないって、ちょっと何かが欠けて

いるんだろうっていう想いもあった。

そして、月日は過ぎた。

とある寒い日だった。

寒い日には、祖母も母もよく誰かの服に

アイロンをかけていた。

アイロンの糊の匂いが好きで、蒸気の中に

その匂いがするとくんくんって猫みたいに

鼻を利かせたくなっていた。

一人暮らしをしていたその時、クローゼットを

のぞくと、一枚だけ別れた彼のワイシャツが

ハンガーにかかっていた。

わたしの家から会社に行くこともあったので

それが一枚だけ残っていたみたいだった。

洗濯しっぱなしだったのか適当にしわが

寄っていた。

アイロンは、ほんとうは彼の方が上手だった。

肩山のところのでっぱりとか、

襟元のところにしわが寄らないやり方とか。

ポケットの入り口のところの押さえ方とか。

それでもなんとなく、わたしはアイロンを

かけてみた。

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しゅわしゅわっとした綿が熱のせいで、

ぴしっと何事もなかったかのように、

平らかになってゆく。

さっきまで折れ目や細かい窪みが素材に

浮き上がっていたものが

うまくアイロンで押さえると、まるでそれは

ゼロリターンに戻ったみたいにフラットに

なった。

これってなんだろうって思う。

なんかアイロンをかけるという作業の

プロセスの中には、なにかを浄化させて

くれる作用があるみたいで、一瞬心地よくなる。

その刹那、さっきまで適当にしわが寄っていた

時には感じなかった、ぺしゃんこになった

アイロン台の上のそのワイシャツは、

まるでもともとただの布でしたって感じに

みえてくる。

すこしがらんどうな気持ちになっていた。

身にまとうものっていうのは、こうやって

ぺしゃんこだったのに、誰かの身体が

そこに身をくぐらせるから、生き生きとして

ゆくものなんだなって。

体温を持った人が着ているからこそ、その

デザインや服の美しさが引き立つものなの

かもしれない。

その時だった、わたしはこれを着ていた彼と

どうして別れてしまったんだろうとふいに

想いがよぎってきて。

よぎったら最後、まだ消していなかった彼の

電話番号にアクセスしていた。

寝ていたみたいだった。

ふにゃふにゃした声がした。

寝てたわって昨日まで喋っていたみたいに彼は

話してくれた。

ひどい別れなんかふたりの間になかったみたいに。

どしたん?

うん。

なにしてたん?

え、アイロンかけてた。

アイロン? ぼんちゃんめっちゃ下手やったやん。

知ってるわ。でもうまいこと行ったよ。

まぐれやな。

そう、まぐれや。

なんやツッコミ入れてや。リズムくるうわ。

うん。

その時、わたしはふいに指先の冷たさに気づいた。

そして、あの凡庸な情景だと思っていたあの短歌と

同じことを言ってみたくなっていた。

一瞬の賭けに出た。

彼あの歌と同じリアクションをしたらまた

よりを戻してもいいのかもしれないって。

若いってこわい。妙な賭けをしたがる。

今日、寒いな。 って

思い切ってどきどきしながら言った。

そうか? 寒い言うたら寒いけどぼんちゃんは

人一倍寒がりやん。おそろしくつめたい指してた

やろ。寒いって言われたら寒い気がしてきたわ。

賭けは微妙だった。

そうか? って彼は言った。確かにそう聞こえた。

そうか? って言ったってことはわたしは賭けに

負けたのだ。

あの寒いねの歌は、ひとりっきりでは楽しめない短歌

だったんだと、その時知った。

寒いねって言ったら寒いねって言ってくれる誰かが

居ない人には、あの歌は味わえないんだと。

あの頃、仕事ばかりですれ違い、ふたりはそんな

ささやかな幸せをかみしめる思いの中では

暮らせていなかった日々が浮かんできた。

その日、他愛もない話で別れていないかのように

彼と夜中まで話し込んだ。

電話を切ってから、アイロンをかけ終わったシャツに

手のひらで触れると、ほの温かくてまるで彼の体温

みたいだと、ほんの少しだけぼんやりしたくなって

宙を見ていた。

あの歌をいつかどこかで目にしたら、きっと彼を

思い出すんだろうなってそんな予感がしていた。

そしてまたアイロンをいつか寒い日にかけてしまう

のかもしれないって。


かなこさんの記事を読ませていただいていたら、

今日はこなんなことを書いてみたくなりました!

ありがとう!かなこさん!



ひらがなの雨が 降ったり やんだりしている
ゆきずりの ぺしゃんこたちが 風はらむ時


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