ひとりにみつけられたら、もうひとりじゃないということだ。
いま、とつぜん開きたくなったページには
<いつかみつけられるものたち>という
タイトルのついた写真が載っている。
6角形のガラスの器。
たぶんひまわりかなんかの種を
縦に入れてしまえばいっぱいになりそうな
そんな感じの高さ。
そしてすいかの種をいっぱいならべたら
10個ぐらいで満杯になりそうな
そんな奥行き。
白い紙の上にささやかな器が8個並べられている。
器の中央はラズベリーのゼリーみたいな
楕円型に輝くものが納められていたり
ウスバカゲロウの羽根に似た、かなしいぐらいに
透き通った、ちぎれた3片だったり
深緑の二等辺三角形を逆さにした練香のような
ものだとか
とにかく得体の知れないものばかりが
8個ガラスの器の中に存在している。
この写真から得られる情報は、風通しがよすぎる
ぐらいすかすかとして少ないのに、
なんとなくほっとする。
こんなに得体が知れないにもかかわらず。
そしてなによりも<いつかみつけられるものたち>
っていうタイトルがとても好きだなぁと思った。
よのなかにはみつけることのできる人や物、
感情よりも、
みつけることのできない人や物、
感情のほうが断然多いのだから
決してそのことを忘れてはならないという
話をまっすぐに話している人の声を聞いて、
そう感じる人の思いって
おこがましくも、きれいでいいなと感じた
ばっかりだったので
<いつかみつけられるものたち>という
ことばにつよく反応してしまった。
わけのわからない誰もが美しいとも
おもわないかもしれない物質を
ガラスケースの中にいれて
個々の存在の輪郭があらわになるように
写真家はぱちっと写す。
彼の眼が、すでにもうみつけてしまった
物たちなのに
<いつかみつけられるものたち>と
名付けてしまうその思いに、こころを奪われた。
はじめに誰かがきれいだなと思った思いが
じぶんの中で発酵するようにふくらんで
つぎの思いに連鎖してゆく。
生まれてから死ぬまでこの思いの連鎖は
わたしがなにかを塵ほどでも感じる限り
つづいてゆくのだと思うと
あまりにとりとめなさすぎてちょっと
気が遠くなりそうだったのに。
たとえ
憶えてられないほどのひとつひとつで
あっても
どこからか連なるそのとりとめのなさに
勇気づけられることも 確かにあることを、
実感していた。
いつかどこかでみつけられることを
待っている感情や物や人がどこかにきっと
ある。
たくさんじゃなくていいのだ。
たったひとりさえいてくれたらいい。
誰にいうでもなく、昔小さかった頃よりも
いまはなんとなくそんな気持ちでいることを
かつて小さかった頃のじぶんに手紙を書きたい
そんな気持ちの春の午後だった。
春の夜 ちいさな声で 名前を呼んで
繰り返し 水になって サカナになって