【所感】ところで、数学の主役ってなんですか? 〜「正解探しの数学」はもうやめなさい〜
数学の主役ってなに?
そんな問いをしてみる。あなたはどう思いますか。
私の答えは(様々な場で公言しているように)論理です。数学の主役は論理である。そういう立場で私は数学という言語を使っています。しかしもちろんこの問いに正解はなく、実に様々な回答があるでしょう。
「数学の主役は数である」
これもひとつの答えとして納得感があります。ゼロの誕生、素数の分布、実に魅力があり、それゆえ数学は成立するかもしれません。
「数学の主役は数学者である」
個人的には好みではありません(笑)
「数学の主役はそれを学ぶすべての人である」
個人的には好みです(笑) まあ私の好みはどうでもいいですね。
さて少しだけ考えたいのは、そもそも「主役」とはなんだということ。
つまり「主役」の定義です。
定義が変われば答えが変わる。
私がいつも申し上げるお決まりのフレーズですが、ここでもやはり登場します。
定義が変われば、全てが変わります。
だから「数学の主役は?」という問いは、「主役の定義は?」を問われていることと同義です。
物事を思考するにあたり、定義がいかに重要かを物語っています。
まさに数学と同じだね。
ちなみに私の「主役」の定義はこうなります。
それがなければ成立しないもののうち影響力が最大のもの。
いちごパフェの主役は何か。いちごです。いちごがなければ、いちごパフェは成立しません。
例えば映画。もちろん主演がいます。主演がいなければその映画はおそらく成立しません。もちろん監督もいなければ成立しないかもしれませんが、最終的に映画は人々に観てもらう映像になります。監督がいなくても映像は作れますが、主演がいなければ映像になりません。映画の主役は、主演俳優です。
同じように考えることで、私は数学の主役が論理であると結論づけています。
論理がなければ数学は成立しません。
もちろん数もなければ成立しないかもしれませんが、最終的には分析し体系化できなければ数学の教科書は存在しません。分析し体系化するとは、いわゆる論理で思考することで可能な行為です。(最新刊:「数学的思考トレーニング」でもお伝えしています)
数がなくても数学的思考はできますが、論理がなければ数学的思考はできません。
数学の主役は、論理です。これが私の定義と結論。私はこれに納得しています。誰かの納得はどうでもいいし不要です。私がこれに納得していることが重要です。
納得しているから伝えることができる。
納得しているから広めることができる。
納得しているからこの記事も書ける。
よく取材で「数学的思考ができると人はどうなるのですか?」という質問をいただきます。
とても本質的でいい質問です。
私は迷わずこう答えています。
「その人にたくさんの納得をもたらします」
あなたは、人生において自身が納得できる答えを作れていますか。
それを作る術を持っていますか。
答え自体は重要ではない。
その答えにあなた自身が納得できているか。
それが重要です。
「数学の主役はなんだ?」という冒頭の問いに、「論理だ」「いや数だ」「いやオイラー(数学者)だ」と意見をぶつけ合うことにはまったく意味がない。というか、はっきりいって生産性ない実にくだらない行為である。あなたがそれに納得できていれば、それでいいのです。
人間社会は10人いれば10通りの答えがある。だから面白いんじゃないのか。他人の答えに興味を持ちすぎないように。特に、いわゆる「数学の人たち」は。
正解のない自由な数学。
未来の数学は、こっちです。
正解探し、もうやめましょう。
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