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文というハンドルネーム、さわむら蛍というペンネームで書いていた作文をブラッシュアップしてまとめています。
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2020年9月の記事一覧

ざつぼくりん 38「べっぴんさんⅣ」

ざつぼくりん 38「べっぴんさんⅣ」

「伯母ちゃんから聞いたんやけど、義姉ちゃん、入院したんやて? 予定日はまだやろ? 具合悪いのんか?」

明生からの電話だった。昨日の夕方のことだ。十歳で京都に移り住んだ弟は会話のほとんどが京都弁だが、僕はそんなにうまく話せない。それでもゆったりとした明生の声を聞くと懐かしくて、なんだかほっとする。

「いや、具合が悪いっていうんじゃなくて、ふたごを少しでも長くお腹にいさせるために入院したんだ。どう

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ざつぼくりん 37「べっぴんさんⅢ」

ざつぼくりん 37「べっぴんさんⅢ」

郵便局の角を回って路地に入る。路地の真ん中当たりの小さな平屋建ての家の傍らに梅の木が伸びている。それほど大きな木ではないが、早春には白い花を開き、その香りとともに、その路地を通って駅へ向かう勤め人たちをひととき和ませてくれる。

その幹につっかえ棒がしてある。この前の台風のときに手当てしたらしい。つっかえ棒の先に分厚い板が当てて括りつけてあるのだが、板と幹のあいだに一枚白い布が挟んである。梅への心

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ざつぼくりん 36「べっぴんさんⅡ」

ざつぼくりん 36「べっぴんさんⅡ」

窓の外の風景はもはや色を失い、夜に溶けている。今、絹子は傍らのベッドで横向きになって眠っている。その顔は少し青白く見える。

「なんだか眠り姫になったようにいくらでも眠れるの。こまっちゃう。ねえ、王子さま、わすれずに起こしにきてくださいましね」

などと絹子が言うのは多少貧血があるせいらしい。苦手なレバーやプルーンをがんばって食べてきたが、やはり負担が大きいのだと思い知る。ふつうならたったひとりの

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ざつぼくりん 35「べっぴんさんⅠ」

ざつぼくりん 35「べっぴんさんⅠ」

海辺のちいさなこの町に、秋雨がしずかに降りはじめる頃、華子は僕と絹子の部屋にやってきた。そして、一カ月あまりたった秋晴れの今日、世田谷の九品仏の自分の家に帰っていった。来たときと同じように父親である紘一郎に連れられて帰っていった。

手を繋いで部屋を出るふたりを見送った僕は、今、病院にいて、地上はるか十一階の高みにある産科病棟の病室から、気ぜわしく色を落としていく薄暮の空を眺めている。

この大学

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ざつぼくりん 34「一咫半(ひとあたはん)Ⅶ」

ざつぼくりん 34「一咫半(ひとあたはん)Ⅶ」

「時生さん、オミくんって元気でいるんでしょう?」
華子が聞く。

「ああ、長野の養護学校に通ってるよ」
時生のことばは事実ではなく、願いだ。
       
片山さん一家が長野に引っ越した翌年の二月に、大きな寒波が襲来し長野は記録的な大雪が降った。家族は細心の注意を払っていたが、予想外の寒さにオミくんは風邪をひき、こじらせてしまった。オミくんはもともと循環器系が弱い。気がついたときにはひどい肺炎を

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ざつぼくりん 33「一咫半(ひとあたはん)Ⅵ」

ざつぼくりん 33「一咫半(ひとあたはん)Ⅵ」

片山家を辞した帰り道、木々の芽吹きの匂いにつつまれてふたりは駅まで並んで歩いた。片山さんの自慢のワインをご馳走になったこともあって、ふたりでそぞろ歩く春の宵はなんとも心地がよかった。

ふたりは互いのことではなくオミくんの話をした。オミくんのすきなもの、きらいなもの、こわいもの、たいせつしてるもの。どの話にもオミくんがつぶやいた一言がつく。

かたつむりの角は出入りできるからすき。絹子せんせいの声

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ざつぼくりん 32「一咫半(ひとあたはん)Ⅴ」

ざつぼくりん 32「一咫半(ひとあたはん)Ⅴ」

で、ちょっと強引だったんですけど、その指導法を聞きたいのであわせて下さいってお願いしたんです。ちょうとオミくんの誕生日が近かったもので、じゃあっていうんで、そのお誕生会で絹子を紹介されたんです。

はじめて会ったときの絹子はにくたらしいくらいオミくんのこころをしっかり掴んでたんです。担任の僕よりずっと仲がよくて、正直なところ、チクショウって思いました。

でもオミくんと絹子がいっしょにいるところを

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ざつぼくりん 31「一咫半(ひとあたはん)Ⅳ」

ざつぼくりん 31「一咫半(ひとあたはん)Ⅳ」

「実はぼくたちには縁結びのキューピットがいるんですよ。オミくんっていうおとこのこなんです。オミくんは僕が養護学校で担任したクラスの生徒だったんです」

美大を卒業した絹子が勤めていたのは総勢五人のデザイン事務所だった。ほっそりとして穏やかな笑顔のオーナーは片山さんといった。若白髪だったが、まだ五十代に入ったばかりだった。

「チーム・カタヤマ」はそれぞれに得意分野を持つひとが集まり、チラシからポス

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ざつぼくりん 30「一咫半(ひとあたはん)Ⅲ」

ざつぼくりん 30「一咫半(ひとあたはん)Ⅲ」

「華ちゃん、お客さんをこき使って悪いんだけど、これお座敷に運んでくれる?」

志津が華子に頼む。はい、と答えた華子は手渡された食器をお盆にのせて、床の間のある部屋へと慎重に運ぶ。妊婦はすわってなさいと言われた絹子はダイニングの椅子に腰掛け、もうすっかりうちとけた感じの志津と華子を眺める。

かいがいしく動く華子。笑顔でそれを見守る志津。

「ありがとねえ、すまないねえ」という志津のあたりまえの言葉

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ざつぼくりん 29「ひと咫半(ひとあたはん)Ⅱ」

ざつぼくりん 29「ひと咫半(ひとあたはん)Ⅱ」

その日の夕飯、ひき肉入りのオムレツを絹子は白い銘々皿に手早く盛り付ける。それを受け取った時生がポトフ風のスープとサラダを添えて各々のベージュのランチョンマットのうえに並べる。

そこへ華子が風呂から上がってきた。こころなし、血色がよくなったように見える。テーブルについた華子は絹子が手渡す牛乳をこくこくと飲みほしたかと思うと、話の途中のような口調で華子がたずねる。

「それで、カンさんていくつなの?

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ざつぼくりん 28「一咫半(ひとあたはん)Ⅰ」

ざつぼくりん 28「一咫半(ひとあたはん)Ⅰ」

焼き菓子の香ばしいかおりがしてきた。

華子はオーブンの前に陣取り腕組みをしてそのなかをにらみつけている。えらく真剣な顔つきで、朝から絹子とふたりで作ったカステラの焼き具合を見張っている。

カステラは期待に応えて焼き色を重ね、空気をはらんで次第にその体積を増やし始めている。

秋晴れになった日曜日、小さな台所に飛び込んだ光の粒子が洗いあげられた鍋や食器にまぶしく反射している。

その光を追うよう

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ざつぼくりん 27「透明ランナーⅥ」

ざつぼくりん 27「透明ランナーⅥ」

僕の転居を知った幼なじみの仲間たちが、卒業式が済んだ後、お別れのキャンプを計画してくれた。みんなで神奈川県の丹沢まで行った。

夜、黒々と茂る森林を背景に燃え上がるキャンプファイヤーを見ながら僕たちはいろんなことを話した。

純一が将来建築家になりたいという夢を語ったかと思うと、シンヤはロックシンガーになりたいと言い、マコトはラーメン職人になるなんて言い出した。

僕にはみんなのような夢がなかっ

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ざつぼくりん 26「透明ランナーⅤ」

ざつぼくりん 26「透明ランナーⅤ」

食事が終わってからテレビがつき、僕らは野球中継を見た。孝蔵さんはジャイアンツファンだから勝負の行方次第で機嫌が変わった。大負けした日には別人のように機嫌が悪い。そのあとのニュースにいちいち文句をつけたりした。特に政治家の悪口は辛らつだった。 
  
志津さんもジャイアンツファンで、昔のジャイアンツ黄金時代のメンバーの名前を教えてくれた。野球選手の名前も背番号もインフィールドフライだとかタッチアップ

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ざつぼくりん 25「透明ランナーⅣ」

ざつぼくりん 25「透明ランナーⅣ」

あの家の縁側から庭にむかって座って、足をぶらぶらさせながらスイカやトマトをみんなでいっしょに食べた。

あの夏、あの家で食べた物はごく普通の献立だったが、美味しかった。同じものを今食べてもなんだか違う味がした。あの銭湯で、あの家で、あの庭で、あの純一といっしょに飲んだり食べたりしたから、どれもあんなに美味しかったのだろうか。

あの家の柱のそばに風の通り道があって、そこだけひんやりした。僕はなんと

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