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ざつぼくりん 35「べっぴんさんⅠ」

海辺のちいさなこの町に、秋雨がしずかに降りはじめる頃、華子は僕と絹子の部屋にやってきた。そして、一カ月あまりたった秋晴れの今日、世田谷の九品仏の自分の家に帰っていった。来たときと同じように父親である紘一郎に連れられて帰っていった。

手を繋いで部屋を出るふたりを見送った僕は、今、病院にいて、地上はるか十一階の高みにある産科病棟の病室から、気ぜわしく色を落としていく薄暮の空を眺めている。

この大学病院は何年か前に建て替えられたのだが、この場所で僕と弟は生まれた。そしてここで母は死んだ。

「とうさんは先生と大事な話があるから、時生は明生を連れて外で遊んでなさい」

そんな言葉が記憶の底にある。昼間なのにあたりはなんだか薄暗くて、差し込む光を受けてそこだけが銀色の川のように光る病院の廊下を、弟の手を引きうつむいて歩いたのはいつのことだったろう。今でも僕の中には、茶色くくすんだあの古い病棟が建っていて、太い窓枠にはめ込まれた少しでこぼこしたガラスの向こう側に母が眠っている。

病院は、今では清潔で明るく、全てがシステマティックに変わった。どこか無機質な空間になり、幼い僕たち兄弟が通っていたころの薄暗さやつれたような面影はほとんどない。大きな窓が切り取る景色もずいぶん変わったが、駐車場に残る大きなメアセコイアの木は今も昔も変わらぬ佇まいで天を目指して伸びている。ここを訪れるひとに差し出されたたくさんの腕のようなその枝が、暗い海底で揺れる海藻のように大きく風になびくさまに視線を移しながら、僕は華子を巡って伸びたり縮んだりする記憶を探っている。

「華ちゃん、今日も夜幕おじさんが幕を引きに来たよ」 

ここにはいない華子に呼びかけてみる。それを聞いたらきっと華子はクスッと笑って、時生さん、そんなことおぼえてたの、というだろう。そしたら僕は、そんなことだけおぼえてるのさ、と答えよう。

    
秋雨の晴れ間を待って華子を交えた僕ら三人は「引き込み運河の道」をよく歩いた。僕が生まれ育ったこの町のいろんな場所に、絹子は赤毛のアンのように自分だけの名前をつけて呼ぶ。「剣呑小路」だとか「たたら坂」だとか「つるかめ通り」なんてのもある。 

その名を聞くたびに華子が反応して「どうしてそんな名前なの?」と由来を訊いたが、絹子はニヤっとして小首をかしげ、ふくみ笑いをして「さてね」と答えるのだった。

堤防に咲く花の名を華子がたずねると、絹子はきちんと答えた。コスモス、キキョウ、ケイトウ、アザミ、ワレモコウ……。

知らない花に出くわすと、雑草という植物はないのよ、と言いながら、即興で呼び名をつけた。「にょろにょろもどき」だの「鼠花火草」だの、理科のテストではペケだが、妙に説得力のある名前を冠した。

そんな絹子に触発されたのか、その帰り道、暮れ始めた空を見上げた華子が言い出した。
「ねえ、ふたりとも知ってる? 地球には『幕引きおじさん』がいるのよ」

えっ? と戸惑う僕たちに、華子は続けて自作の「おはなし」を語り始めた。空のむこうには季節の幕を引く四人のおおきなおじさんと一日の幕を引く「朝幕おじさん」と「夜幕おじさん」というちいさなおじさんたちがいるらしい。ちいさなおじさんの引く幕は季節によってきっぱり鮮やかだったり未練たらしかったりする。

特に秋の夜幕おじさんはせっかちで、つんのめるようにしてやってきては、その黒い幕でいろんなものをふわりとつつみ込んで持っていってしまう。気がつくと夏休みの絵日記に描いたものがなくなっている。アサガオもひまわりも花火もスイカも扇風機も、入道雲も夕立も、夏をたのしんだ昆虫たちもいつのまにかおじさんの幕につつみこまれて遠いところへいってしまうのだという。

華子はなおも空を見上げ、ひとりごとのように言った。

「お休みのない幕引きのおじさんたち、疲れないかしら。ふたりがいなくなったらどうしよう。朝幕おじさんがいなくなったら太陽が昇らないし、夜幕おじさんがいなくなったら星を見られなくなってしまう」

華子の暗い顔を晴らすように絹子があっけらかんとした口調で「おなはし」の続きを勝手に作ってしまう。

「あのねえ、疲れたおじさんたちは北極圏に転勤になるから大丈夫なのよ。そういう人事異動があるの。こっちにはまだ元気な幕引きおじさんがきてくれることになってるの」

「へー、どうして、北極圏なの?」

「北極圏では朝幕夜幕ともに、あけっぱなし引きっぱなしが半年続くから、疲れたおじさんには休暇のようなものなの。おじさんは時々サンタさんに会って世間話をしたりして、ストレスを解消してるの。ときどきトナカイの試運転にもつきあうらしいわ」

「それはよかったわ。でもなんで幕のあけっぱなし、ひきっぱなしが半年も続くの?」
真面目な顔つきで華子が問うと絹子はその先を僕に振る。

「それは志水センセイが答えてくれます」
「それはね、白夜といって……」
そう言いかけて僕は思いなおした。

「いや、それはそこでおじさんが恋をするためだよ。ゆっくり相手をさがして結婚して、朝幕さんも夜幕さんもおとうさんになるんだよ。その跡継ぎがおおきくなったら幕引きから引退するんだ」

「へー ほんとー?」と華子が驚く。

絹子は僕のほうを見てふきだすように笑い出した。僕もそんな妙なことを言い出した自分が可笑しかった。その時華子は笑っていただろうか。僕にはよく見えなかった。引き込み運河にひかれた夜の幕が華子をすっぽり包み込んでその輪郭をおぼろにしていた。
    



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