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ざつぼくりん 33「一咫半(ひとあたはん)Ⅵ」

片山家を辞した帰り道、木々の芽吹きの匂いにつつまれてふたりは駅まで並んで歩いた。片山さんの自慢のワインをご馳走になったこともあって、ふたりでそぞろ歩く春の宵はなんとも心地がよかった。

ふたりは互いのことではなくオミくんの話をした。オミくんのすきなもの、きらいなもの、こわいもの、たいせつしてるもの。どの話にもオミくんがつぶやいた一言がつく。

かたつむりの角は出入りできるからすき。絹子せんせいの声はしずかちゃんみたいだからすき。しいたけのつくだには、げじげじみたいできらい。おまんじゅうはすきだけどこわっていうものなの。

それぞれが知るオミくんのエピソードで、そうそう、そうなの、と納得したり、へー、そんなことが、と驚いたりした。

オミくんの存在は試薬のようにひとをはかる。こだわりやひろさ、たいせつなものの順番をくっきりさせてしまう。時生の個人的なことは、養護学校の先生であること以外はなにも知らないのに、絹子にはそのひととなりの輪郭が見えるような気がした。ラフなデッサンではあったが、好ましい輪郭だった。こころを残しながら別れた。

その誕生会後まもなくのこと、片山事務所ではちからのあるメンバーふたりがたて続けにやめて行った。ひとりは自分で事務所を作って独立し、いまひとりはもっと大きなところに引き抜かれた。

ファミリーのようだと思っていた片山事務所にも絹子のあずかり知らないところで意見の違いや軋轢があったらしい。自分が育て信頼してきたメンバーだっただけに片山さんはその水面下の動きに気づかなかった。その落胆ぶりは大きかった。

やめて行ったひとたちにはそれぞれ長年の付き合った顧客があった。大学病院の医師が患者を連れて開業するように、彼らはそのリストを携えて出て行った。残りのメンバーの力ではその穴を埋めることができず、新たに募集しても思うような人材が集まらなかった。 

人員、力量の不足はいかんともしがたく、事務所の仕事の量や内容が変化していき、それに伴って次第に経営も思わしくなくなっていった。梅雨の季節に、沈む船に見切りをつけるように絹子以外のメンバーももっともらしい理由をつけて辞めていった。

その後、片山さんは絹子を伴って新しいクライアントを訪ねて営業活動もしたのだが、そうそう業績はあがらなかった。そばで見ていると片山さんの人の良さや敏感な感受性が裏目に出てしまうように思われた。

来る日も来る日も実るあてのない訪問を繰り返すうち、片山さんの気力が減退していった。盛りを過ぎた生き物がしおれ、よわっていく姿を目の当たりにしているようなこころもとなさがあった。から元気でひたすらに励まし続けた絹子の声も次第に小さくなっていった。

      
「オミくんの誕生会の帰りに絹子と並んで駅まで歩いたんですが、話したのはオミくんのことだけでした。それでも、絹子ののびのびとした自然で無理のない感じとか、どこかありきたりでない感じが伝わってくるんですね。

すぐ駅に着いちゃったもんで、じゃあって別れたんですが、そのあとも絹子のことが気になってなりませんでした。並んで歩いたときの絹子の上気した頬の色や肩に流れてたさらさらの長い髪がふっと浮かんでくるもんで、自分でも戸惑いました。

笑うとあがりさがりする肩とか、驚いたりあきれたりする時に大きく見開く丸い目だとか、小首をかしげて耳の裏を親指で撫でながら考えごとをするさままでがくっきりと思い出されて、ああ、やっぱり連絡先を聞いておけばよかったって後悔したものでした。

仕方がないので、オミくんに、『絹子先生はどうしてる?』なんて聞いてしまって『来るよ』という愛想のない答えにがっかりしたものでした。

その年の秋の終りのころだったかな、急にオミくんが転校するって話になったんです。くわしいことはわからなかったのですが、片山さんは事務所を閉め、一家は奥さんの実家がある長野市へ引っ越すことになりました。ついてはお別れ会をするので来てほしい、と片山家に呼ばれたんです」

お別れ会には近所のひとや友人たち、片山さんが「おせわになった」というひとたちが片山宅に集まった。絹子も呼ばれた。片山さんが淡々と事情を説明し、こころからのお礼とお詫びを述べた。表情は硬く、その声が細かった。

どのひとも片山さんを気遣う表情を浮かべて聞いていた。残念がるひとも不満を漏らすひともいた。絹子のそばにいた時生は口元に力を入れてうつむいていた。

料理を勧めながら「今日はどうぞゆっくりしていってくださいね」と晴れやかな声で奥さんが言うと、ひとびとは口々に名残りを惜しんだ。挨拶をしてまわる奥さんの白い柔らかな生地のフレアースカートが揺れた。笑顔と明るい振る舞いがよけいにさびしく映った。

オミくんは絹子にお気に入りのビー玉をくれた。きれいね、というと、オミくんがうれしそうにわらって、抱きついてきた。その背を何度も撫でた。絹子は水彩で描いたオミくんの肖像画を手渡した。

ダウン症児の肖像画はなんだかせつない。ほかのだれでもないオミくんを描きたいのに、オミくんの顔はオミくんだけの顔ではない。だから絹子は鼻に皺を寄せて唇を尖らしているオミくんを描いた。それをみたオミくんが同じ顔をしてみせた。

その帰り道、もうふたりはオミくんのことは語らなかった。自分のことを告げ、相手のことを訊いた。そして次を約束した。

      
「その帰り道に、僕と付き合ってくださいって絹子にいったんです」
「いい話じゃねえか、なあ、志津」
「そうね、よかったわね、時ちゃん、こんないいお嫁さんもらえて」

いやあ、そんな……、照れくさそうに時生が言う。


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