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ざつぼくりん 36「べっぴんさんⅡ」

窓の外の風景はもはや色を失い、夜に溶けている。今、絹子は傍らのベッドで横向きになって眠っている。その顔は少し青白く見える。

「なんだか眠り姫になったようにいくらでも眠れるの。こまっちゃう。ねえ、王子さま、わすれずに起こしにきてくださいましね」

などと絹子が言うのは多少貧血があるせいらしい。苦手なレバーやプルーンをがんばって食べてきたが、やはり負担が大きいのだと思い知る。ふつうならたったひとりのための特別な揺籃をふたりで分かち合うことになってしまった僕たちのふたごは、今の状態では、そろって二五〇〇グラム以下で生まれ、未熟児と呼ばれることになるだろう。

カラスのケンの雛たちはカンさんちのハンガーで作った巣で孵化するが、ぼくたちのふたごはまず保育器のなかにソフトランディングすることになる。そこにいたる道筋は父親になる僕のちからの及ぶところではないのだが、体重はともかく、その後の健康や成長のために一日でも長くお腹にいてほしいと願っている。

そのために、緊急ではないが絹子は入院し、安静に過ごすことになった。やはり帝王切開をにらみながらの出産になるだろう。ことさらに不吉なことを考えるつもりはないが、「もしも」はどこにでも転がっている。ふっと視線を逸らせたわずかな隙にでもひとのいのちはあっけなく消える。準備は手厚いにこしたことはない。逆に言えば父親見習いの僕にできることはそれくらいしかない。

     
僕の五歳下の弟、明生も早産で生まれた未熟児だった。父に手を引かれて母のいるこの病院へ向かった春の日のことを思い出す。

風の強い晴れた日だった。道すがら正面から吹き付ける風が父の髪を煽った。煽られた髪は黒い炎のようになって父の上で踊った。駐車場のメタセコイアの木が、太古よりここにいますとでもいうような圧倒的な存在感でそのそばを行く父と子を見下ろしていた。

病室に入ると母がひとり横になっていた。膨らんでいたおなかはぺしゃんこになっていたがそばに赤ん坊はいなかった。ナースステーションのそばのガラス張りの病室にいくつかの保育器が並んでいた。そのなかで眠っているひときわ血色の悪いちいさな赤ん坊を指差して、これがおまえの弟だ、と父は言った。

その小さなからだには透明のチューブがつながっていて、目や手はガーゼに覆われていた。折れそうな細い足。泣き声は届かない。背伸びしてそれを見た僕は息を飲んだ。その箱のなかにいるのは人間になるまえの生き物のようだった。あるいは違う惑星の住人のようでもあった。

僕は、羽化の途中で放り出されてしまったかわいそうな昆虫を見たときのような気持ちになった。もっと正直にいうとなんだかそんな姿の弟が気味悪くて、はやくその場から逃げ出したくなっていた。あのとき僕は、僕の横で乱れた後ろ髪をひと房握りしめたまま、息をつめてじっと保育器のなかを見つめる父を見て、自分の弟を気味悪く思ったことが急に後ろめたくなった。

しばらく見ているとガーゼでくるまれた細い腕が動いた。僕はなんだかほっとして、父の手を握りなおした。父はその手を強く握り返し、僕のほうを見て黙ってうなずいた。

僕はときどきそのときの記憶に苦しめられる。今は、僕たちのふたごがただ元気に生まれてきてほしいとだけ願っているが、明生のような姿かたちをして生まれてきたら、僕はまたそんな思いを抱いてしまうのだろうか。なにがあってもしっかりとこの手にふたりを抱いていけるだろうか。


絹子が入院してから、僕は、朝、沢村さんのところへ華子を預けて出勤した。帰りは華子を迎えに行って、そのまま二人して絹子の病室へ向かった。昔、母が入院したとき僕がお世話になったときのように、孝蔵さんと志津さんは快く華子を受けいれてくれた。

孝蔵さんがこの病院の呼吸器科に予約のある日は終日、カンさんの古書店「雑木林」に預かってもらった。僕が仕事で遅くなって沢村さんへ迎えにいけないときも店を閉めたカンさんが華子を絹子の病室まで連れて行ってくれた。

病院からの帰りはいつも八時を回った。面会時間が終了するまで僕たちはこの病室にいた。華子は沢村さんやカンさんのことを絹子に話した。その話はいつも細部のひだがとても深くて、僕たちは華子の記憶力の良さに驚いた。僕自身はなにを話すわけでもないのだけれど、ほかのどこでもなく絹子やふたごといっしょにいるところが自分の居場所のように感じていた。

帰り道、ふっくらとまるくなった月の光を浴びて青く染まる道に僕と華子の影が伸びていた。あたりは海の底を行くような青さだった。僕と並んで歩きながら華子はさっきの続きのように口をひらく。

「時生さん……わたし、自分のための応援団になるの」
「うん? 自分を応援するってこと?」

「絹子さんが言ってたの。絹子さん、ふたごちゃんがおおきくなってきたから、おなかがくるしくなって、足もむくんじゃって痛むんだけど、そんなふうにがんばってふたごを産む自分はエライ! って自分で自分のことほめてあげて、励ますことにしたんだって」

「ふーん、絹子がそんなことをねえ……」

「うん。自分のことを好きだからだって。それとすごくつらいときは、誰かがほめてくれるの待ってらんないからって……だからわたしも自分のことほめてあげることにしたの」

「そうかあ、華ちゃんもすごくつらいのかい?」

「……わたし、四年生になってからは週三回、塾へ通ってるでしょう?」
「そうだってね。私立中学を受験するんだろう? たいへんだね」

「うん、クラスのお友達もみんなどこかを受験するっていってるし、塾へ通ってる子も多いよ。……それにわたしの受ける学校ももう決まってるの。おばあちゃんも叔母さんも従姉妹たちもみんなその女子校だったんだって」

「じゃ理子ちゃんもその学校に通ってたのかい?」

「うううん。理子ねえさんは受験しておっこったの。うちのおばあさんってものすごくはっきりものをいうひとだから、そのことでおかあさんはおばあさんにいろいろ言われたらしいの。だからおかあさんは、すごくぴりぴりして、わたしにはもっと勉強させなくっちゃって、いっしょうけんめいなの」

華子の祖母は家付き娘で先年亡くなった祖父は婿養子だったと聞いている。

「うーん、絹子なら、そこらへんが因縁めくわねえ、なんてミステリーみたいなことを言うだろうな……それで、華ちゃんは塾通いがつらかったのかい?」

「つらいこともあるよ。帰りが夜遅くなることもあるしね。それでもがんばってるから、わたしも絹子さんみたいに自分応援団になるの」
    
踏みきりにさしかかる。遮断機の前で立ち止まると、秋が深くなってきましたと教えるようにキンモクセイの甘い香りがした。電車が通り過ぎるとその香りは彼方へと去り、金網の向こう側に生えるひょろりとした雑草の種が、その風圧で羽のように舞い上がり、思いがけず高く飛んだ。

「でもテストの点数のことばっかり言われるのがいやなの。おかあさんは点数が悪いと気難しい顔になって、そんなんじゃ理子みたいに落ちてしまうわよってみんなの前でいうの」

「ああ、そんなこと言われたら、華ちゃんもいやだろうけど、おねえさんもイライラするだろうね。やり投げじゃ名前の通った選手なんだもんね、理子ちゃんは」

「うん、そんなときは理子ねえさん、すごく機嫌が悪くなるの」

「ああ、それだから理子ちゃんは華ちゃんに『うちのこじゃない』なんて言っちゃったんじゃないかな。八つ当たりしたんだよね、きっと」

「そうかもしれない……」

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️