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ざつぼくりん 26「透明ランナーⅤ」

食事が終わってからテレビがつき、僕らは野球中継を見た。孝蔵さんはジャイアンツファンだから勝負の行方次第で機嫌が変わった。大負けした日には別人のように機嫌が悪い。そのあとのニュースにいちいち文句をつけたりした。特に政治家の悪口は辛らつだった。 
  
志津さんもジャイアンツファンで、昔のジャイアンツ黄金時代のメンバーの名前を教えてくれた。野球選手の名前も背番号もインフィールドフライだとかタッチアップとか、細かい野球のルールも、あの夏、あの家で覚えた。

三角ベースは孝蔵さんに教えてもらった。団地の駐車場でよくやった。

「野球したくても人数が足りないときは、いろんなものを、はしょっちまうんだよ」

それにしてもべらぼうな野球だ。これはすごいルールだなって今になって思う。キャッチャーはいらない。三塁も外野も守備もなし。絶対必要なのはピッチャーとバッター。野球盤のように、打球の行き先でツーベースとかホームランなどを決める。

打球がそこへ飛ぶとランナーが出る。しかし人数が足りないときにランナーを出すと次の打者がいなくなってしまうから「透明」と宣言して、透明ランナーが現れる。

見えないけど、塁にはランナーがいる。ヒット打ったら透明ランナーがホームインする。透明ランナーの走る速度はバッターランナーと同じだ。

つまり、ヒットを打ったバッターが一塁に一塁に走りつくより早く守備側が二塁を踏めば透明ランナーはアウトになる、などけっこう細かい取り決めがある。

僕たちはどの季節にもほんとうによく三角ベースをした。シンヤやマコト、おんなのこも仲間にはいっていた。純一は足が速かったから純一の透明ランナーはかならず生還して、僕やシンヤの透明ランナーはいつも憤死だった。

純一の家では夜になると雨戸を閉める。団地には雨戸がないので妙な感じがする。 志津さんが雨戸を閉めると、外の音が聞こえなくなって、ああ、一日が終わるんだなと感じた。

純一とずっといっしょにいることがうれしくて、寝るのが惜しいような気分だったが、やはり子供は子供で、布団にはいると一日の疲れが出てすぐに寝ついた。

母の病気はずっと気がかりではあったが、純一といっしょにいると、どの日も豊かに過ぎていき、家族が離れ離れになっているという寂しさを思い出す間もなく、深く眠ってしまった。

雨戸を閉める時刻に僕の父が訪ねてきたことがあった。
「時ちゃーん、おとうさんよー」と志津さんが晴れやかな声で僕を呼んだ。

僕が玄関に出ると父はきまり悪そうな顔をして僕の頭に手を置いて「時生、元気か?」と訊いた。僕は頷き、「とうさんは?」と訊いた。

父は自分の靴先に視線を落として、「心配しなくてもなんとかやってるよ」と呟くように答えた。そんな父の背中を叩くようなはっきりとした声で志津さんが言った

「志水さん、どうぞ上がってくださいな」
「いえ、もう遅いですから」
ぼそりと父が答えた。

「あの、奥さん、かげんいかがですか?」
「あ、もうちょっとかかりそうなんです、すみません」

玄関の薄暗い電灯の光の下で父は身の置き所に困っているように見えた。そんな父が恥ずかしいような気がした。ものすごく悲しいような気もした。寄りかかりたい気持ちとそっぽを向きたい気持ちがこころのなかで奇妙に入り組んで落ち着かなかった。

思い出したように父は持ってきた荷物を僕に手渡した。
「かあさんが着替えを持っていけって言うから持ってきた」
「ありがとう」
「じゃ、とうさん、帰るな」
「うん」

「沢村さん、すいません、時生のこと、よろしくおねがいします」
 木戸を出て坂道を上がっていく父の背の丸くなった後ろ姿を月が照らしていた。


その日からどれだけ時間が流れただろう。母は僕が中学三年の冬に、何度目かの入院先の病院で息を引き取った。病気は再発し、全身に転移という最悪のかたちをとった。弟はまだ小学生だった。

「時生、明生をたのむわね」
痩せ細った母はそんな言葉を残していった。

指図してくれるひとがいなくなって、暮らし下手な父はほんとうに途方にくれた。見かねた伯母さんが僕たちを京都に呼び寄せた。父は研究所を辞め、京都の薬科大学の非常勤講師になった。三人とも新学期は京都で迎えることになった。


    

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️