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ざつぼくりん 38「べっぴんさんⅣ」

「伯母ちゃんから聞いたんやけど、義姉ちゃん、入院したんやて? 予定日はまだやろ? 具合悪いのんか?」

明生からの電話だった。昨日の夕方のことだ。十歳で京都に移り住んだ弟は会話のほとんどが京都弁だが、僕はそんなにうまく話せない。それでもゆったりとした明生の声を聞くと懐かしくて、なんだかほっとする。

「いや、具合が悪いっていうんじゃなくて、ふたごを少しでも長くお腹にいさせるために入院したんだ。どうせ臨月まではもたないから」

「そうかー。それならええんや。ちょっと心配になってな。にいちゃん、あんじょうみたげてや。未熟児はつらいで。人生をマイナスからスタートせんならんさかいなあ。ま、僕がええ見本や」

「ああ、わかってる。たいへんだったよな、おまえも。でも、よくがんばったよ」
「それはにいちゃんと伯母ちゃんのおかげやとおもてる」

「親父は?」
「ああ、おとうちゃんもそれなりにがんばってくれたけどな。……なあ、にいちゃんはええおとうちゃんになってや。義姉ちゃんに無理さしたらあかんで」

「ああ、大事にする」
「あの、ぼく、てったいにいこか? 親戚の子、預かってるねんやろ? たいへんやんか。ぼく、なんぼでも休みとれるで」

明生は元気になってから、身の回りの誰かのことをいつも案じている。

「サンキュウ。でも、大丈夫だ。にいちゃん、きっちり産休取るから」

「はは、それはしゃれかいな。にいちゃん、相変わらずへたくそやな。関西人に笑われるで。……まあ、それならよかったわ。そやけど、なんかあったらいうてや。伯母ちゃんもそういうてる。」

「ああ、ありがと。こっちには沢村さんがいるから安心さ。おまえのほうは彼女とうまくいってるのか?」

「あたりまえや。にいちゃんに心配してもらわんでもだいじょうぶや。りっちゃんもふたごのこと楽しみやていうてる。はよ会いたいなあって」

「そうか。まあ、それは、もうちょっと待ってもらってくれ」
「あ、そや、伯母ちゃんがふたごが生まれたら清明はんへ姓名判断してもらいに行くていうてるで。ええのんか?」

「うっ! まだあきらめてないのか? まいったなあ……」
「ふふ、僕はしらんでー」

「まあ、しょうがない。なんとか説得するさ。ところで親父は元気か?」

「うん。相変わらす、背中丸うして薬学のセンセしてる。なんや一番性におうてるみたいや。定年まできっちり頑張るつもりらしい。時々なんやかわった料理作っては伯母ちゃんをびっくりさせてるわ。まあこの頃は『あー、ぼくも爺さんになるのかあ』ていうて、しみじみしてるで」

「そうか、しみじみか……。元気ならいいんだ。よろしくいっといてくれ……じゃ、またなんかあったら電話するから」

受話器を置いても、義姉ちゃんにもよろしゅうな、と言った明生の声が耳に残った。  

その余韻を霧散させるように電話が鳴った。絹子の長姉、華子の母親である睦子からだった。睦子は開口一番苛立った声で言った。

「ずいぶん長く話中だったわね。お宅じゃキャッチホンにしてないの」

僕は「すみません」と謝った。キャッチホンは無粋で、失礼なものよ、と絹子が言い張るので使っていない。睦子の高い声が響いた。

「華子が連絡してきたんだけど、絹子が入院したそうね。早産なの?」
「いえ、そうならないための入院です」

「でも、はやいわね。こまったわ。時生さんだけじゃ。昼間は誰もいないんでしょう? それじゃ、華子を預けておくわけにはいかないわよね。主人とも相談したんだけど、明日、主人に迎えに行ってもらうわ。土曜日だからちょうどいいわね、昼過ぎにいってもらいますからね。おうちにいてね」

 睦子は一方的に早口でまくしたてる。時生が勤めに出てしまうと華子がひとりになってしまうからと案じているようだが、初産でふたごを産む絹子が早めに入院したことをそう案じてるふうではない。

「いえ、こちらでは僕の仕事中面倒見てくれるひともいますから大丈夫です。みんな華ちゃんのことたいせつにしてくれていますから」

「でもねえ、あまりよく知らないひとに預けるのも心配だし人聞きも悪いから、やっぱり迎えにいくわ。それに華子ももうお食事できるっていってるから、こちらも予定をくんじゃったのよ。主人に言ってもらいますから、明日必ず家にいてちょうだいね。わかった?」

睦子はそう言って一方的に電話を切った。受話器を置くと思わずため息が出た。意識しているのかどうかはわからないが、睦子の何気ない言葉のなかにはいつも小さな棘がある。話しているうちに気がつくとこちらのこころのどこかに傷が出来ている。

「あまりよく知らないひとに預けるのも心配だし、人聞きも悪いから」という言葉がざらりと後味悪くこころに残った。

     
僕たち兄弟はそろって親ではないひとの元に預けられて育った。母が発病したとき僕は十歳で、弟は五歳だった。たちの悪い病だった。その若さゆえに進行が早く、手術と再発を繰り返した。

母がこの病院に入院するたびに僕は沢村さんの家に、明生は母方の祖母の家に預けられた。それは僕たちが選択できることではなかった。五年病んで母は逝った。その後、家族が移り住んだ京都では、父の異父姉である伯母が暮らしの細かな面倒を見てくれた。

和菓子屋に嫁いでいた伯母が末の娘が大学に入るのを見届けて離婚したのは、僕たちを呼ぶ二年ほど前にことだった。事情はよくわからないのだが、離婚後も伯母はずっとその和菓子屋に勤めていた。訳を聞いてもまっすぐには答えず、にやりと笑って「まあ、いわゆるひとつの経済の問題やな」とはぐらかすのだった。

京都の上京区で伯母といっしょに暮らし始めた当初、僕たち三人は母のいない暮らしに打ちひしがれていた。京都の盆地特有の夏冬の天候の厳しさや「入りびと」になじまない排他性にも閉口した。

薬品会社の研究所から薬科大学の講師になった父の髪はみるみる白くなり背中はますます丸くなっていった。僕らはよるべなさを噛み締めながら眠りについた。明生は週に幾度かは泣きながら寝入った。僕は明生が眠るまでその手を握っていた。

そんな僕らのうつむきっぱなしの日々に伯母は業を煮やし、ある日、奮起した。朝、僕らの部屋の入り口で仁王立ちになって「あんたらええかげんにしい!」とどなりつけ、「家のこと、ひととおりのことをしこんで、あんたらを一人前のおとこにしたる!」と宣言した。

伯母と父の母親つまり僕らの父方の祖母は、伯母が十二歳のときに再婚して父を生んだ。再婚するまえの祖母は、伯母にとってとても厳しい母親だったのに、弟である父にはたいそう甘かったらしい。

「あんたらのおとうちゃんは過保護に育てられたさかいに、あかんたれやねん」

そういいながら伯母は暮らし下手な父と高校生の僕と小学生の弟をまとめて教育しはじめた。雑巾の絞りかたから風呂場のカビ取りや生ゴミの処理の方法まで、日々の細かなことをとことん仕込まれた。

伯母は厳しい師匠だった。京都弁はおっとりとして柔らかだというひとが多いが、伯母が口にする普段使いの京都弁は切っ先鋭く僕らをつっつくのだった。

「あんたらあほかいな」と何度言われたことだろう。

大学にいけなかった伯母が国立大学を出た父に向かって「ほんまにあほやなあ、あんたは」というとき、伯母がそれまでの人生の仕返しをしているような気がしないでもなかったが、勝気で自分のマイナスを語ることのない伯母の悲しさがその向こうにあるようにも感じていた。 

伯母の呆れ顔のあてこすりや少々皮肉っぽいスパルタが効を奏したらしく、おとこ三人は苦笑しながら少しずつ気力を回復していった。母の不在はそんなふうにして埋めていくしかなかった。

おかげで僕ら三人は協力し合って家事のひととおりのことをどうにかこなせるようになった。とりわけ僕はアイロンがけが抜群にうまい高校生になったし、弟は「にいちゃん、魚は夕方の遅い時間がねらいめやで。マジック持ったおっちゃんが値段書き変えはるさかいに」なんてことを言う、やたらと安売りに詳しい小学生になった。買い物は明生にまかせておけば間違いがなかった。父もようやく茶碗洗いをこなすようになり、僕らはもう絶対にゴミ出しの日を忘れない家族になった。

しばらくして、伯母が和菓子屋へ行く途中自転車で転んで右手を骨折してしまったので、仕方なく父が料理をするようになった。男子厨房に入らずと教えられた父だが、なにしろ根が実験屋だから粉末や液体の分量をはかるのはお手のものだし、化学反応も熟知している。データを取って研究し始めるや、料理というものは創造的でなかなかおもしろいものだ、と言い出した。

来る日も来る日も出汁を取りながら、要するにグルタミン酸なんだよな、などとブツブツひとりごとを言っていたが、その上達ぶりはめざましくて、父の作る煮込み系の料理はさすがの伯母も一目置いていた。

京都の辛口の空気に鍛えられたのか、父の理系のデータ料理がよかったのか、明生は中学に入ってようやく成長がみんなに追いつき、身体も年々丈夫になっていった。小癪なことに今では僕よりも少し背が高い。

小学校のときは熱で参加できなかった修学旅行も、中学では行けるようになった。ま、行き先は東京だったが。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️