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ざつぼくりん 28「一咫半(ひとあたはん)Ⅰ」

焼き菓子の香ばしいかおりがしてきた。

華子はオーブンの前に陣取り腕組みをしてそのなかをにらみつけている。えらく真剣な顔つきで、朝から絹子とふたりで作ったカステラの焼き具合を見張っている。

カステラは期待に応えて焼き色を重ね、空気をはらんで次第にその体積を増やし始めている。

秋晴れになった日曜日、小さな台所に飛び込んだ光の粒子が洗いあげられた鍋や食器にまぶしく反射している。

その光を追うようにして穏やかな風が通り抜けると、部屋のなかのかろやかなものがうれしげに揺れる。華子の髪も揺れる。

「あー、すごい、ふくらんできたー」

そういいながら腕組みを解いた華子が振り返り、洗いものを続ける絹子に興奮して報告する。華子らしい、いい顔つきだと絹子は思う。

「そーお? でも、まだまだ時間かかるわよ」
「絹子さん、ほんとにカステラっておうちでできるのね。びっくりね」

「びっくりすることないでしょう。絵本の『ぐりとぐら』で、でっかいカステラを作ってたじゃない。森のみんなでおいしそうに食べてたでしょ?」
「絹子さんて、そんなことよくおぼえてるね」
「ふふ、そんなことだけよくおぼええてるの」

「へんなのー。ね、カステラって牛乳はわかるけど、みりんとかはちみつとかサラダオイルまでいれるなんて知らなかったなあ。それにたまごを七個もいれるのね」

早口の華子。頭のなかみがくるくると回転しているにちがいない。

「レシピはいろいろあるわよ。でも、華子は、殻が入らないようにうまくたまごを割るから感心しちゃった」
「そうでもないけど……」

「あ、ほっぺたに粉がついてる。せっかくのべっぴんさんが台無しー」

強力粉をふるったときについたのか、オシロイバナの種の中身をなすりつけたように白くなっている。

「もうー、わたしはべっぴんさんなんかじゃないもん」
と文句を言いながら華子は洗面所に飛んでいく。

洗面所を出た華子はダイニングの椅子に腰掛け、思案顔で、むかい側にいる時生に問う。

「ね、時生さん、わたし、やっぱり、今日、沢村さんのおうちにいかなくちゃだめ?」
「うん? 華ちゃんは行きたくないの?」

「うーん、初めてのおうちでご飯食べるのってなんだか……緊張する」
「そうかあ、緊張するかあ……そうだなあ、僕もちょっと緊張するかもしれないなあ」

そのやりとりと聞いて、絹子は声をかける。

「じゃ、ふたりとも、部屋の隅っこの方でカステラを食べてればいいじゃないの」
「……そんなことして叱られない?」

「ふふ、すっごく叱られるかもねー」
「もー、絹子さんの意地悪!」

「はは、カンさんも来るから大丈夫だよ、華ちゃん。きっと意地悪な絹子の攻撃から僕たちを守ってくれるさ」
     

何日か前のこと、華子と絹子はプリンを持って「雑木林」へ行った。その日の夕刻、カンさんから電話があり、時生が応対した。  

「はい……あ、今日はどうも。ふたりがなんだかすごく長居しちゃったそうで、申し訳なかったです。……はい、はい……えっ、そうなんですか、ああ、よかったなあ。カンさんのおかげです。ありがとうございます」

時生の表情がやわらかくなっていき、ここにはいないカンさんに何度もお辞儀をする。

「……えっ? ああ。志津さんが?……はい……はい……あ、それはうれしいなあ……ええ、うかがいます。日曜日の昼ですね。カンさんもいっしょでしょう? ……それはよかった。はい、それじゃあ、そのときに……」

電話を切った時生の表情が明るい。ジーンズの後ろポケットに両手をつっこんでゆっくりと夕食の準備をする絹子のそばに寄ってくる。

「あのさ、カンさんがいうには、さっき、絹子が寝ているあいだに華ちゃんとふたりでプリン食べたんだってさ」

「へー、そうなの? なんか嘘みたい」

「華子さんは、するんするん、っておいしそうに食べていましたよって、弾んだ声で言うんだ。華子がいる時に言うと意識させちゃうと思って黙ってたらしいよ……しかし、さすがカンさんだな」

「そうねえ。ほんとによかった。これで少し安心ね」
「でも、このあともあせらず、ぼちぼちいこうな。理子ちゃんとのこともあるしな」

その日、「雑木林」でカンさんと華子が話していた話の内容はほとんど時生には告げなかったが、華子が理子に言われた言葉だけは正確に伝えておいた。

「うん。ふたごが生まれたら、また何かが変わるかもしれないし」

「ああ。……あ、それから、絹子たちが帰ったすぐあとに志津さんが来たんだって。お祭りのご馳走をみんなで食べにおいでって、僕たちを招待してくれたそうなんだよ」

「まあ、うれしい。華子も連れて行きましょう」
「ああ、そうしよう。けど……僕は……ちょっと怖いような気もする……」

 時生は生まれ育ったこの町に再び戻ってきてから、ふたりを訪ねていない。あんなにお世話になったのに、と不義理を咎められたら返す言葉がないと時生は言う。

視線をそらした時生の横顔を見つめながら、絹子は時生の気持ちを追う。

訪ねてしまったら純一がもうどこにもいないことを確かにしてしまう。行きつ戻りつしてどこにもたどり着けない思いを持て余し、視線をそらすように先延ばしにしているあいだに日々は重なっていき、その過ぎてしまった日の長さがまた行けない理由になったのにちがいない。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️