見出し画像

ざつぼくりん 30「一咫半(ひとあたはん)Ⅲ」

「華ちゃん、お客さんをこき使って悪いんだけど、これお座敷に運んでくれる?」

志津が華子に頼む。はい、と答えた華子は手渡された食器をお盆にのせて、床の間のある部屋へと慎重に運ぶ。妊婦はすわってなさいと言われた絹子はダイニングの椅子に腰掛け、もうすっかりうちとけた感じの志津と華子を眺める。

かいがいしく動く華子。笑顔でそれを見守る志津。

「ありがとねえ、すまないねえ」という志津のあたりまえの言葉が華子の胸のうちでふわっとふくらんでいるような気がする。

美味しそうな料理の匂いにまじって、ふっと線香の匂いがする。

昔と変わらぬたたずまいの沢村家の木戸の前で夫婦の笑顔に迎えられた三人は、挨拶もそこそこにまず仏壇にむかった。その途中で何度も時生が息を飲んだ。その視線は家のすみずみに飛んだ。長くひとところにとどまったかと思うと、次の瞬間せわしなく動いた。 
  
廊下の角の柱までくると時生が立ち止まった。目を細めてその柱の上から下まで眺めたかと思うと、その表面の古い傷をすっと撫でた。そして離した手を強くにぎりしめた。

焼きあがったばかりのカステラを仏壇にそなえると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。時生が線香に火をつけ、鉦を鳴らす。鉦の音は波紋のように部屋にひろがった。手を合わせながら、時生はつめえり姿の遺影にむかって純一の名を呼んだ。一度だけ呼んだ。身のうちからしぼり出すような声だった。その声はいつまでも消えずにその空間に漂っているように感じられた。

じっと遺影を見つめる華子の目から涙がこぼれた。絹子の頬にも涙が伝った。うつむいた時生が肩を震わせる。食いしばった口元から嗚咽が漏れた。

だまってその後姿を見つめていた孝蔵が、一言、「ありがとよ」と声をかけた。そのそばで志津も頭を下げた。


「絹子ちゃんはむこうで食器を銘々に並べててちょうだいな」

 そう言われて絹子は和室へ移動し、大きな食卓に六人分の食器をならべる。

竹の箸置き、塗りの箸、九谷の染付け皿の趣味がいい。孝蔵と志津の普段使いの箸もある。孝蔵の箸はごつくてながい。大きな手なのだろう。小さく華奢な志津の箸。そんなふたりが手を繋いできたのだと思う。高校生の純一の手も大きかったのだろうか。

「今日は……にぎやかでいいなあ、志津」

そんな声をかける孝蔵は縁側で時生と将棋を指している。庭先に置かれた手入れの行き届いた盆栽の棚に陽があたる。かたちよく刈り込まれた枝の影がちいさい。廊下の突き当たりに雨戸の戸袋が見える。

遠くお囃子の音が聞こえる。膝に置かれた孝蔵の大きな手のひらいた指先がそのリズムを刻む。その動きは太鼓の音とぴったり合っているように思われた。

顔を洗ってさっぱりした時生は、おじさん、もう、飛車角は落とさなくていいですから、と言ったのだが「あー、これはー」などと唸って、苦戦しているようだ。その姿をみるともなくみている孝蔵の口元に笑みがうかぶ。そして、思い出したように言う。

「なあ、時ちゃん、今年は神輿が出るぜ。あとで華ちゃん、連れてってやんな」
ええ、と答えながらも時生は将棋盤から目を上げない。

志津が料理を大きな盆に載せて運ぶ。白い割烹着が甲斐甲斐しく動く。ちらし寿司、しめじのお吸い物、ひらめの昆布〆、出し巻きたまご、さばの竜田揚げ、こんにゃくの白和え、茶碗蒸し。自家製の漬物もある。

志津のこころはずみをあらわすように、手間隙をかけた料理が品数多く食卓にならぶ。丁寧に料された一品一品にこめられた思いがあるように思う。できましたよー、という志津の晴れやかな声にみなが席につく。

「あ、うまそうだ。おばさんのちらし寿司、なつかしいなあ」

おとなになった時生のむこう側でちいさな時生が笑っているような気がする。小さな時生は純一や仲間とここに集い、どの年もこのちらし寿司を食べたにちがいない。この夫婦はそのこたちの食欲が年々旺盛になり、そろって元気に大きくなっていくさまを目を細めて眺めていたことだろう。

「いやあ、あいかわらずのもんばっかりさ。さ、絹さんも華ちゃんも食ってくれ」
「どれもほんとにおいしそう。ふたごの分もしっかりいただきます。」

「ふふ、どうぞ召し上がれ。華子ちゃんのお口にあうかしらね」
「ねえ、カンさんは?」
 ひとつだけ座り手のいない座布団を見つめながら華子が聞く。

「ああ、なんでも今日大事な荷物が代引きで届くから、それを受け取ってから来るらしくて、ちょっと遅れますから、みなさんで先にはじめててくださいって電話がありましたよ。だから気にしないで召し上がれ」

「ふーん」
「じゃ、いただきます」

時生は箸を取り、ちらし寿司をほおばる。志津の作るちらし寿司には他の具といっしょにちいさく切った蛸が酢飯に混ぜてある。

あ、蛸がはいってる、という絹子の驚いたような声を聞くと、急に時生の動きが止まる。咀嚼を止めたまま、うつむく。

それを見て、孝蔵が大きな声を出す。
「おい、志津、醤油がないぞ」

「あ、わたしが持ってくるの忘れてたの。ごめんなさい。取ってくる」
 華子が台所へむかう。

「すまねえな、華ちゃん。……時ちゃん、あのべっぴんさんは今にいい嫁さんになるぞ」
華子に聞こえるような大きな声でおどけて孝蔵が言う。華子の背中が笑っている。

「はは、そうかもしれないですね、おじさん」
照れくさそうに顔をあげた時生が答える。

「はい。どうぞ。……これ、おばあちゃんちにあるのとおんなじ壜だわ」
「ふふ、キッコーマンの醤油差し、わたし、このかたち大好き」
 なにげなく絹子がそういうと、みながしげしげとその醤油差しを見つめる。

「へー、絹さん。こんなもんがすきなのかい?」
「ええ、このデザイン、いいでしょ?」

「そうかねえ。こいつは昔からあるぜ。当たり前のかたちじゃねえのか?」
「あ、おじさん、絹子は結婚前、デザイン事務所に勤めてたんですよ。だから、こういうのとか、食器とか箸とかにけっこううるさいんですよ」

「そうかい、こんなものにもデザインがあるのかい」
「へー絹子ちゃん、デザイナーさんだったの? かっこいいねえ」

「いえ、まだまだ、なんにもできないたまごでした」
「はは、たまごがかえるめえに時生がかっさらちまったってわけだ」

「まあ、そうなの? ああ、時ちゃんと絹子ちゃんのなれそめ、聴きたいわねえ」
「おお、おお聴きてえな、な、華ちゃん」

「うん」
 華子がにこにこして答える。気がつくと華子は茶碗蒸しを食べている。

「なれそめかあ……、なんだかあらたまると照れちゃいますね。えーっと、五年まえの春の日にはじめて会いまして……」

 照れくさそうにそれでも丁寧な言葉を重ねながら時生は時間を遡る。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️