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ざつぼくりん 37「べっぴんさんⅢ」

郵便局の角を回って路地に入る。路地の真ん中当たりの小さな平屋建ての家の傍らに梅の木が伸びている。それほど大きな木ではないが、早春には白い花を開き、その香りとともに、その路地を通って駅へ向かう勤め人たちをひととき和ませてくれる。

その幹につっかえ棒がしてある。この前の台風のときに手当てしたらしい。つっかえ棒の先に分厚い板が当てて括りつけてあるのだが、板と幹のあいだに一枚白い布が挟んである。梅への心遣い。月の光にその布が青く染まる。毎晩ここを通るたびに僕と華子はその布に見入り、笑みを交わす。

コンビニの横の坂を上る。おなじみの家並みも月光の青にぬれて、夜に沈んでいる。

「……このあいだカンさんが、理子さんのお言葉は腕のいい職人のこさえたタンスのひきだしのようなもんですよって言ってた」

「えっ、ひきだし?」
「あのね、きっちりとしまるタンスは、ひきだしを勢いよく閉めると、他のひきだしがひょいって飛び出すんだって。……タンスの中に満ちた空気がいきどころなくて他のものを押し出してしまうんだって」

この坂はけっこう傾斜がきついので華子は息を継ぎながら話す。新築の家にふたりが通りかかるとふっと門灯が点き、洒落た玄関ドアが現れ、遠ざかると消える。

「今回はたまたま飛び出したのが華子さんのひきだしだったんでしょう。そういうのを世の中では、とばっちり、といいます、ってカンさんは言うの」

「ああ、そういうことか。……そう考えてみると華ちゃんちのタンスのひきだしはおばあさんからはじまって、おかあさんやおねえさんに華ちゃんまで、いろんなひとの段が飛び出すんだね」

「それって永久に誰かのひきだしが飛び出すんじゃないかなって思うんだけど……」

「うーん。おなじことをくりかえせばそうなるかもしれないけど、そのとばっちりをやり過ごして、こんどはゆっくり静かに自分のひきだしを閉めれば、もうどこも飛び出さないんじゃないかなあ」

「でも、それじゃ最後のひきだしのひとが一番かわいそうだね」
「いや。かわいそうなのではなくて一番やさしいってことじゃないかな」

「ふーん。やさしいってしんどいことなのね」

小さな公園にさしかかる。一日の仕事を終えた遊具たちはもう眠りについているようにもみえる。絹子はここに来るといつも、夜の公園では見えないこどもが遊んでいるのよ、と言う。

ブランコやジャングルジムはうつつで僕には見えない子供のわらいごえを聞いているかものしれない。水銀灯のひかりの届かぬところで、丈高い欅の葉がさややさややと鳴り、わずかに色づいたせっかちな何枚かの葉が風に乗って飛んでいく。

「そうそう、この前、カンさんが言ってたけど、インドでは耳掃除をする仕事があるんですって。時生さん知ってた?」  

絹子もそうだが、華子の話もずいぶん遠くへ飛ぶ。カンさんもだ。それぞれの話は見えない糸でつながっているのかもしれないが、僕はいつも首をかしげながら追いかける。

「いや、初めて聞いたな。そんなの仕事になるの?」

「代々耳掃除のお仕事なんですって。おとうさんもおじいさんもそのまたおじいさんもずっとだれかの耳掃除をして暮らしてたんだって」

「へー、それはすごいな。絹子が聞いたら喜びそうな話だけど、それはなんだか可笑しいような哀しいような話だね」

「うん。それでわたしが……なんかすごい技とかあみだしたりしたのかしらっ言ったら、カンさんがそれはきっととろけるようにきもちのいい技なんでしょうねえっていうの。毎日毎日だれかしらの耳掃除するのってどんな感じかしら?って聞いたら、そりゃあ毎日仕事があってうれしいなっていう感じですよ、だってー。おかしいねー」

 そんな話をするときの華子は、蒸気でくもったガラスが一瞬にして晴れるみたいに透き通った笑顔になる。

「インドっていえばねー、カンさんが言ってたけど、奥さんの作ったお弁当をだんなさんの会社に届けるっていう仕事もあるんだってー。驚いちゃった」

「ああ、むこうは暑いから弁当の管理もたいへんだねー」

「カンさんはね、その仕事はお弁当といっしょに気持ちも届けているような気がしませんか? っていうの。奥さんの作ったものが食べたいっていう気持ちとだんなさんに食べさせてあげたいと言う気持ちを結ぶ仕事のように思いませんか?って」

「そうか、夫婦は食べ物でつながってるわけだねえ」

「ねえ、時生さんもそろそろ絹子さんの料理が食べたい?」
「はは、絹子が僕の料理を食べたがってるんじゃないかなって思うよ」

「ふふ、そうかしら?……志津さんのつくる親子どんぶりはちょっと甘めでふわふわしていておいしいの。おいしいおいしいっていうわたしのそばで孝蔵さんはなんにもいわないだけど、すっごくおいしそうに食べるの。ご飯一粒の残さず食べるの」

「志津さん、料理うまいもんね」
「三つ葉はわたしが切るんだけど、手伝うとふたりともすごく褒めてくれるの。なんか照れちゃう」

「でも、ふたりに褒められるとすごくうれしいだろう?」
「うん、うれしい」

お祭りの日にお宅にお邪魔して以来、華子は沢村夫妻のアイドルになっている。

「孝蔵さんたら散歩してるときに誰かにあうと、わたしのこと、時ちゃんの姪の華ちゃんてんだ、って紹介してくれるんだけど、かならず、どうだ、べっぴんさんだろう?って言うの」

「ははは、孝蔵さんらしいねえ」

「そしたら志津さんが、およしなさいな、華ちゃんが困ってますよ、っていってくれるんだけど、孝蔵さんは、例の調子で、ばかやろー、べっぴんをべっぴんって言って何が悪い? て言うの」

「ははは、言いそうだー」

「それで、そうですねえ、悪かないですねえ。けど、身内の自慢はみっともないと思いますよって志津さんが言うと、孝蔵さんは、クシュンてだまっちゃうの。おかしくて……」

「はは、そうなんだよ。ああ見えて実は志津さんのほうが強いんだよね」

老夫婦だけの生活に飛び込んできた若いいのちに少々とまどいながらも、食事のことから言葉かけまで、あたたかに大切にあつかってくれる夫婦のようすが、なにげない華子の言葉から知れる。

公園からは急勾配の坂を下る。その途中でふっと華子が立ち止まった。気がついて振り返ると、電柱の明かりがスポットのように華子を浮かびあがらせていた。 
 
真剣な顔つきで、華子は言った。

「……あのね、孝蔵さんは、こどもは親に似るもんさっていうの……ぱっと見、似てねえ親子だって、実は妙な具合に似てんだよ、体の端っこの耳やら爪の形なんか判で押したみたいに似てるんだよって。『ぶさまなとことか、いけねえことほどそっくりなんだよ。根性もそうだが、たとえば足の小指のつぶれた爪とか湿った耳垢とかさ』って。どんな親子にもきっとそういうとこがあるはずさっていうの」

「うん、それは言えてるよ。死んだ純一って顔の造作はあんまり孝蔵さんに似てなかったけど、声はそっくりだったよ。それと、爪が孝蔵さんと同じように角ばってたなあ。大きな手なのにふたりとも器用でね。僕のこの手に負えない頑固なクセっ毛だってそうだよ。おかあさんゆずりなんだよ。天然、天然ってよく冷やかされたけどね」

「ふーん。……あのね、わたしの足の二番目の指は親指よりもかなり長いの。靴はくときゅうくつで、よくマメができたりするの。すごくへんな足のかたちなんだけど、それはおとうさんのとそっくりなの。わたしが爪を切っていたら、へんなところが似るもんだっておとうさんが笑って見せてくれたの。いやんなるくらい同じかたちなの。そういったら孝蔵さんが、『ほらみな、華ちゃんは親父さんのこどもなんだよ。案じるこたあなんもねえよ』っていってくれたの」

「そうかあ、よかったねえ。ほっとしたね、華ちゃん」
「うん」と、思いのほか小さな声で華子は答えた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️