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ざつぼくりん 31「一咫半(ひとあたはん)Ⅳ」

「実はぼくたちには縁結びのキューピットがいるんですよ。オミくんっていうおとこのこなんです。オミくんは僕が養護学校で担任したクラスの生徒だったんです」

美大を卒業した絹子が勤めていたのは総勢五人のデザイン事務所だった。ほっそりとして穏やかな笑顔のオーナーは片山さんといった。若白髪だったが、まだ五十代に入ったばかりだった。

「チーム・カタヤマ」はそれぞれに得意分野を持つひとが集まり、チラシからポスターにはじまり、生活全般のさまざまな製品のデザインやオフィスのレイアウト、ウェブのデザインなどを手がけていた。

新入りの絹子はもっぱら片山さんの傍らで雑用係りをしていた。その取るに足らないように思える雑用をしながらの観察が実はあらゆるデザインに必要な目配りを育てるのだと片山さんは力説した。

出先の街角で目を引くものがあると、それが古くても新しくても、これをしっかり見て憶えておきなさい、と片山さんはいった。もののかたちや素材のほかに、ものをつくるひとのこころいきのようなものを感じ取っておきなさい、ともいった。

片山さんには子供が三人いて、末っ子の男の子がオミくんというニックネームで呼ばれるダウン症児だった。

学校の長い休みが始まると、オミくんといっしょに過ごす時間をふやすため、片山さんは自宅で仕事をすることが多くなる。雑用係りの絹子は事務所と片山さんの自宅のあいだを、書類や設計図を持って往復した。

片山さんのお宅ではじめて出会ったとき、オミくんは七歳だった。チャイムの音に反応して玄関にでてきたオミくんは、思いがけず得体のしれない不思議な生き物と遭遇しまったかのようなおどろきと好奇心の入り混じった顔つきをしていた。

そして少々釣りあがった目で絹子をぽかんと見つめた。言葉はなかった。絹子も言葉なく見かえして、ウインクをしてみせた。オミくんは一瞬おどろいたような顔をして半歩後退した。後退したオミくんを追いかけるように絹子はウインクしたまま顔を近づけ、舌を出してみた。

するとオミくんはにやりとわらって、逆襲するかのように顔を近づけ、舌を出した。それを見て絹子は自分の両耳をひっぱって揺らしてみせた。負けじとオミくんもそうする。

それでは、と、ひとさし指で鼻の頭を持ち上げるとそれも真似する。それからおもむろに絹子が両手で顔を隠してからぱっと顔を出して笑ってみせると、オミくんもこらえきれないようにわらった。

そのわらいごえが次第におおきくなったかと思うと、オミくんは絹子に抱きついた。それからふたりは友達になった。

絹子が片山さん宅に行くといつもオミくんが熱狂的に迎えてくれ、絹子が片山さんに言われた仕事をこなすあいだもずっとそばを離れない。オミくんがあまりに絹子に会いたがるので、絹子はオミくんのお絵かきの先生になり、定期的に片山家に足を運ぶことになった。

「あるときから学級でオミくんの描く絵がすごくきれいな色になったんです。しかもものすごく楽しそうに鼻歌まじりで絵を描くんです。

僕は自分自身が絵が好きなもので、オミくんの変化に驚いてしまって、懇談会のときにお母さんにそう報告して、何か変化があったのですか、と質問しました。

するとお母さんが、今度教わることになったお絵かきの先生のことが大好きだから、ものすごくがんばっちゃうんですってうれしそうに言われたんです。

それはそれでよかったんだけれど、でもその先生が僕じゃないことがなんだか悔しかったんです」

お絵かきといっても絵だけではなく遊びの延長のようなことをしていた。オミくんの部屋の床に大きな模造紙を敷いて、手近にあるものに絵の具を塗ってスタンプのように押しつけ、物のかたちを並べた。オミくんはことのほかそれがすきだった。

はさみやえんぴつ、三角定規。空き瓶の口やかまぼこの板や輪ゴムなど、家にあるものを片端からためして、昆虫採集をするように熱中して物のかたちを集めて模造紙を埋めていった。縄跳びや水鉄砲、スイミングのゴーグルとだんだんエスカレートしていき、ランドセルに絵の具を塗ろうとして、絹子をあわてさせたこともあった。

オミくんはビー玉がすきで、たくさん引き出しにしまってあった。絹子にだけ見せてくれたその引き出しは開けるたびに光を発するようにきらきらしていた。

オミくんのお気に入りのビー玉がいくつかあった。そのうちのひとつをいつも絹子に貸してくれる。ふたりはベランダに出て並んで立って空を見上げ、そのビー玉を目に当てる。丸いガラス玉のなかにくねくねと赤と青の色がらせんになって泳いでいる。自分もその色といっしょに泳いでいるような気分になる。

きれいだね、とオミくんが言う。うん、きれい、と絹子が答えると、オミくんはうれしそうに絹子によりかかる。そんな日のお絵かきの時間には、模造紙がビー玉の中の色と同じきれいな色で埋まった。

雪の日に絹子がオミくんをベランダにさそった。風邪をひかないように厚着をしたふたりが並んだ。絹子は両手を体の横にくっつけて雪空を見上げた。オミくんも真似した。雪は尽きることなくふわふわと綿のように舞い降りてきた。

ね、オミくん、こうすると、そらまでぐんぐんあがっていくような気がしない? と絹子が言うとオミくんがぐんぐんぐんぐん、と答えた。

ぐんぐんぐんぐんと絹子が歌うように言うと、オミくんがたのしそうにわらう。ふたりでかぞえきれないほどぐんぐんぐんぐんを繰り返した。ほんとうはちっとも飛んでなかったけれど銀河のはてまで飛んだ気分だった。

その日、何枚か繋いだ模造紙の上で、オミくんはぐんぐんぐんぐんと歌いながらながいながい線をクレヨンで描いた。紙の端までくるとくるりと向きを変え、またぐんぐんぐんぐん線を描き続けた。最後に絹子がその先端にロケットを書き込むと模造紙は宇宙になった。


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