日本文学と海外文学とその装丁
New Directions publishing はニューヨークに拠点を構える出版社である。
1936年、ハーバード大学生だった詩人ジェイムズ・ロフリンが、同じく詩人であるエズラ・パウンドに「なにか役立つことをしなさい」という助言を受けて、ニュー・ディレクション・パブリッシングを発足する。
ニュー・ディレクションズからは、『New Directions in Poetry and Prose』なる詩のアンソロジー本が初の出版物で、以降、それらの詩集や翻訳本、小説などを出版していく。
ウィリアム・バロウズの初期作、エズラ・パウンドの初期作などの他に、テネシー・ウィリアムズの詩集を初めて出した出版社でもある。
テネシー・ウィリアムズといえば、私の最も愛する俳優マーロン・ブランドの主演映画『欲望という名の電車』を書いた作家で同性愛者なわけだが、まぁ劇作家で、元々は舞台版があって、それにもマーロン・ブランドは出演しているわけだ。
ニューディレクションズの本の装丁を見ていると、その前衛的かつウルトラに挑発的でエッジの効いたスリムさに陶酔してしまう。
装丁とはお洋服でありお化粧である。この身嗜みにどれほど拘るかでその中身すらも決まってしまう。人は見た目が9割というタイトルの本があったけれども、まぁ、本だって同じことだ。人は見た目が十割だと心得よ。なぜならば、文学賞を獲ったから、売れているから、それだけで読まずに評価を定める人で巷は溢れている。
ちなみに、ニューディレクションズのホームページはそのUIデザインも美しいが、本当にたくさんの作家の紹介も載っていて、まぁ、私もほとんどの作家は読んだこともないので、自分の無知のレヴェルが推し量れるのでオススメである。
日本の作家もいくつかある。
ちなみに、海外で評価されるためには、その文体が特異であればあるほどに、翻訳者の力量も関わってくるため、文体の特殊さというのは仇になる場合が多いのだという。
古井由吉なんか、あれは日本語特有のいつのまにか迷宮、的な感じだけど、やっぱり翻訳するのは難しそうだ。良さが出ない。ま、つーか、母国語以外の本は基本的には一番の耳ざわり、目ざわり(あえて)が消されるため、なんとも言えない思い。
それから、やはり外国の出版人に向けてのセルフプロデュース、&日本という国の特殊性、独自性、時事、問題点、など、そのような要素もやはり必要にだろう。
海外で売れるには戦略が必要になってくるわけで、それには偶然性も伴うが、そもそも三島も川端もものすごく社交的で、海外評論家とかのパイプも太かった。
現代美術にも言えることで、意味不明だとか理解できない、という意見は、それこそ私は馬鹿だ、という自己紹介であり、こういうものはそういう戦略に基づいて制作されており、いくつものレイヤーを踏まえて作られていて、説明や教養があった初めて制作の意図やメッセージ性、コンセプトに対して理解が起こり、そこで初めて価値が生まれる。作品よりもそのコンセプトに金が発生しているのであって、文学にしてもコンセプトに対して評価が生まれるのである。
西村賢太は、彼の書く作品はもちろん面白いけれども、然し、藤澤清造の没後弟子という、絶妙に絶妙すぎるコンセプトで闘っている。無論本人は本気だろうが、死後に西村の関係者の話を読んだり、彼が色々な作家にファンレターを出したり傾倒する凝り性飽き性なのを見るにつけ、そこに藤澤清造はうまくフィットしたのだろう。
これが川端康成の没後弟子、なんかやったら、そりゃそういう自負で書いている人間は山程いるだろうし、そもそも有名所すぎる。藤澤清造は西村賢太が取り上げない限り、まぁ数十名くらいしか興味のない作家なので、そういう完全に消えた作家を私淑して弟子を名乗り卒塔婆まで家にあるというのは強烈なインパクトと面白みがある。
全然話が逸れてしまったが、まぁ、とにかく、海外の本は美しいものが多い。何よりも、欧米圏がデザインしたものはどこか脱臭されたようにリ・デザインされていく。これはもう『FINAL FANTASYⅦ REBIRTH』であり、オリジナルの匂いはどこへ行ったのか誰にも皆目検討はつかないけれども、外国で売れる世界文学には何よりも普遍性、共感性、そして強固な物語が必須となるため、文体勝負ではお話にならない。
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