書店パトロール58 中村森、『太陽帆船』出航! 良い歌集との出会い
台風が迫っている。
然し、今回の台風はノロノロで、予定もオロオロである。
書店員さんは、そんな日でもお仕事を頑張っておられる。大変な仕事だ。
実は、私も昔、書店でアルバイトをしていた。本は、薄利多売である。だから、万引きは許されないのだ。本の利益、10冊の単行本の利益を1発で帳消しにする万引き。これは許されない。
さて、店内をパトロールしていると、まず目についたのが、『レーエンデの歩き方』。
今人気のファンタジー小説の『レーエンデ国物語』のガイドブックである。
これはもう、完全にアニメ化するってことだよね?と思いながら、まぁ、私は、そんなに空想のおとぎ話国の話に興味がない。
でも、一般受けしそうなキャラデザだし、ヒットしそうだなぁ。出版社とかメディア総出で売りに出るのだろうなぁ。
その横には、『幻想世界の作り方』、なる大判の本が。
こういう、幻想世界、というのは、先人たちが作り上げたきた偉大なものがあるので、新しいもの、斬新なものを産み出すのは大変そうだなぁ、とパラパラと。
その後、映画本コーナーに移動すると、対談本があるので手に取る。
陰謀論、ハラスメント、ケア、ミソジニー……。そして宇多丸の推薦、ということで、まぁ、そういう感じの本なのだな、と、買うことはなく。
映画は娯楽でもあり、世相を映す鏡でもあり、自己実現の場所でもあり、問題提起をするものでもあるが、どうしてもこういう映画本は、読む前からお腹いっぱいになってしまう。
映画本は、どうしてもメイキングや監督論、そこに終始してしまうのが私の悪いところだ。
それから、今度は『悪筆論』に目が行く。
なかなかに濃厚そうな本であり、YASUNARI、谷崎、中上健次、などが取り上げられているので、少し気になったのが、価格が高いため見送り。
書、と、いえば、三島もそうだし、YASUNARIも相当書いている。贋物も多そうだが、ネットでも高額だがゴロゴロ転がっている。安いので10万円くらい、高いので200万円くらいだ。
その後に、短歌で一冊気になる本が。
監修は千種創一。以前詩集を買って、ええなぁ、と思えたのを思い出す。
最近はよく詩集、歌集のコーナーに足を運ぶ。
基本的には、そういうコーナー、まぁ、文学もだけど、ほぼ人がいない。誰が買っているんだろうか、世の中には、歌を必要としていても、言葉だけの歌、歌詞、詩歌、を必要としていない人は大勢いる。
いや、本当には詩、も、短歌、も、必要としているのだが、然し、それに気付いていない。
詩は、紙に書かれなくても、文字に起こされなくても、耳で聴いても、意味は変わらない。ただ、気分が変わるだろう。本、という媒体がネットと違うその最大の理由は身体性、物質性、そして、気分、である。その気分に対して、大してお金を払う必要もないからと蔑ろにしていたとしても、ある日、ふいに立ち上がるのである、その気分が。それは、こういう不意で出会いの時、である。
私は短歌では春日井建が好きだが、春日井建の短歌は1960年代の、青春の頃の短歌が好きである。やっぱり、歌って難しい。それは、瑞々しさには、技工が勝てないからではあるが、春日井建の厨二病的な歌の世界、あれもまた、あの毒々しさもまた、若さの特権ではあるまいか。
それと同じように、この歌集も、若さが溢れているように思えた。少し読んで、そう思えた。それは、装幀にも現れている。私はこの装幀に見惚れた。
なんとも爽やかであり、やはり、この、澱み、濁り切った暗黒の心には、光が必要なのだ。そうして、この本を買おうとして、手に取ると、書店員さんが私の横に来て、いそいそと整理を始めた。
私は、急に自分という存在が、何か、この書店から必要とされていない、そう、人の世に一切必要ではない、毒蛾のような存在、そのように思えて、哀しくなり、もう、俺はこの船には乗れねぇ、とウソップばりに(いつの話?)太陽帆船のクルーから降りたのだった(いや、メリー号から降りたのはルフィたちか)。