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グラフィック・デザイナー(50代)の苦悩 テーマ#10 ”否定評価”の回収方法

みなさん、こんにちは。フリーランス・グラフィックデザイナー(50代)のブブチチと申します。デザインを生業にして30数年。気がつけばシニアと呼ばれるにふさわしい年齢になっていました。noteでは、デザイナー人生においての出来事や学んだ事を自身の体験を交えながらつらつらと自由に書き連ねています。お時間ございます時にゆるくご一読いただければとても嬉しく思います。

いかがお過ごしですか?ブブチチです。

僕が暮らす滋賀県はもうすっかり冬の装いを強めつつあります。冬の琵琶湖は夏に比べて比較的穏やかな日が多く、時折、鏡のような湖面に映りこむ風景の美しさにハッと息を呑むことがあります。冬の琵琶湖も一見の価値あり。ぜひ、みなさんも遊びにいらしてください。

さて今回は、この年齢になってもいまだなかなか思うようにコントロールできない課題のひとつ、提案したデザインが否定的な評価を受けた時のあり方について少し考えてみたいと思います。

できることなら否定も上手に乗りこなしていくデザイナーでありたいもの。

気持ちの様や僕なりの考えを綴ってみたいと思います。しばらくお付き合いただければ幸いです。

プライドの使い所とタイミング

「お願いしたかったデザインとは少しちがうんですよね・・・」

こんな風に提案したデザインが予想に反した評価を受けた時、僕の中には瞬時にして黒い感情がうわっと押し寄せます。

一番初めに来るのは、まるで人格を否定されたことにも似た苛立ち

次に来るのは、じゃあ、どんなものが望まれていたのだろうかという戸惑い

最後にやってくるのは、これでいけると自惚れていた恥ずかしさ

・・・かな。

おまけに、隠していたつもりの感情のザワザワをお相手に悟られてしまう愚行を犯したことも数知れず、そんな時は、世界で一番深い穴の中で膝を抱えて2-3日じっとしておきたいくらいに落ち込みます。

でも、なぜ、こんなにも感情的になってしまうのでしょう?

やはり、そこにはプライドというものが深く関係しているように思います。そして、このプライドというのが極めてやっかいな代物で、僕に限っていえば歳を食えば食うほどに役に立たないものに成長していく傾向があるように感じています。

そのことと関係するか定かではありませんが、ダメ出しを受けているにも関わらず「しかし」とか「でも」とか、そんな風に何とかクライアントの説得を試みようと無様にもがき恥の上塗りをする失敗を幾度となくしてきました。

そもそも説得しないとわかってもらえないデザインであること自体がおかしいのに・・・まったく、お前(自分)と言うやつは!です。

そんなお前が言うなとお叱りを受けること百も承知で言えば、プロのデザイナーが表現する成果物に説得の必要性は全くありません。強いて言うなら必要なのは納得です。制作者の目論見通り意図が伝わり、そこに共感を生み出し、次の行動に誘うべきもの。それがストンと体の中に入ってくる納得感。

受け入れてもらえないのは、何かが間違っていたり、足りなかったりして納得してもらえていない証拠なのに、プロである僕が創ってきたデザインなのだからと依頼された仕事になんら関係ない感情を荒立てて無様な言い訳をしているわけです。

つまり僕は、プライドの使い所とタイミングを完全に間違えてしまっているのです。

制作する過程において己のプライドを注ぐのはおおいに結構でしょう。プライドとはある意味、責任感でもあるから。

しかし、評価される場にプライドを持ち込んではいけません。絶対に。

もしも、過ちを犯しそうになったらバイブして教えてくれるアプリ(iphone、applewatchどっちでも可)とか出ないかなと結構まじめに思ったりしています(笑)。

他者的な視座、そして度量

ここ数年、ご依頼いただくお仕事においてデザイナーである僕の関わり方がずいぶん様変わりしてきました。最近は、かなり早い段階のプロセスから共創する関わり方が多く望まれるようになりました。

少し乱暴な説明になることをお許しいただきたいのですが、共創とは、調査、情報収集、仮説立案、プロトタイピング(ラフデザイン)、評価、修正というプロセスの中で、必要に応じてクライアントの方や消費者の方と共に考え、共に精査していくようなスタイルをいいます(本当にざっくりとした説明ごめんなさい)。その方法はワークショップであったり、ブレインストーミングであったり様々です。

そのおかげと言えるかもしれませんが、これまでのように前後の文脈が見えないままに切り分けられたデザイン部分だけを請け負うということは随分少なくなりました。

ところで、共創においてはデザインに関わらず大抵のモノやコトが常に関係者全員の目に触れ、評価されるタイミングが幾度となく設けられます。

つまりそれは、僕自身も重要な評価者のひとりであることを意味し、デザイン部分で言えば、デザインした瞬間から他者的な視座と度量が求められるわけです。

あっ、でも勘違いしないでくださいね。ここで度量と表現したのは、何を言われても許し受け入れるお釈迦さまのような広い心が必要だという意味ではありません。

この場合の度量とは、情熱を注いだデザインを一旦は潔く手放す覚悟みたいなものを意味しています。

他者的、客観的な視点の必要性は、デザインを生業にしている方々なら今更当たり前のことと思われるでしょうが、僕はどうしても自分に甘く、気がつかないうちに自尊心を守ろうとしていることにハッとすることが多いので、特に強く意識しなければなりません。

もちろん、ご依頼いただくお仕事の全てが共創のようなスタイルのものばかりだとは限りません。ですので、そう言う時はプロジェクトの冒頭で「僕は、みなさん&自分とで何度も叩いて精度を上げていく制作スタイルですので、どうぞよろしくお願いします」と宣言してしまいます。

そうすれば、自身も思い切った試みがしやすくなりますし、周りの人も受け入れやすく、そして思うことを忌憚なく言える環境になりやすい。

場合によっては、手放すための強制力のある環境を自らが積極的に作っていくことも大切だと感じています。

いずれも一朝一夕ですぐに身につくものではないかもしれませんが、己のプライドや感情に支配されるデザイナーにだけはならないように心がけたいものです。

今日も最後までお読みくださって本当にありがとうございます。
みなさんもお風邪など召されませぬよう大事になさってください。

                                ブブチチ



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