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SNSでつながること【「死にたい」とつぶやく】

最近「「死にたい」とつぶやく」という本を読んだ。
2017年に起きた「座間9人殺害事件」を題材にした本。
Twitterで「死にたい」と呟いていた女性を家に招き、犯人が殺害した事件。
この本自体は事件のルポではなく「死にたい」という言葉でなぜ他人と繋がってしまうのか、なぜ「死にたい」で人と人は繋がることができるのかが考察されている。

私自身、この本に興味をもったのは、Twitter(現X)で「死にたい」という人が多いという印象を抱いたから。
「死にたい」以外にも「#病み垢さんと繋がりたい」「#病み垢さんと仲良くなりたい」というタグがあり、自分が抱えている病気や飲んでいる薬の詳細まで公開して共有などをしている様子が伺える。
Xで誰かと繋がりたい、フォローしてほしいという気持ちは理解できるが、自分の弱い部分をわざわざ見せてまで交流したいかと聞かれたら、私はNOである。
子どもの頃、祖母から「弱っているときは弱っていることを外に言っちゃいけない」と言われて育った。
祖母が言いたかったこととしては体が弱っているときに宗教や、こちらを食い物にしようとする悪い人が寄ってくる可能性があるから、他人に弱みを見せるなという意味だったと思う。
その教えが自分を縛っていることもなんとなくわかる。

私自身もnoteで自分の病気のことを書いたりはしているが、積極的に同じ病気の人と交流したいとは思っていないし、ましてや飲んでいる薬の公開もしたくない。
同じ病気でお互い頑張ろう!とは思うが、それ以上の感情は沸いてこない。
ちなみに現在は繋がりたい系のタグと「死にたい」「自殺」など死を連想させるワードはミュート済み。
私は良くも悪くも影響を受けやすい人間なので、あえて見ないようにしている。

そんな「死にたい」や同じ病気を持っている同士繋がりたいという気持ちはどういうメカニズムなのだろうか。

そのようなハッシュタグを付ける意図が、本当にただ同じような境遇や精神状態の友人や恋人を見つけたいというものなのか、そのような人物を誘導して何らかの利益を得ようとする「業者」なのか、はたまた座間九人殺人事件の犯人白石のような、悪意を持った人物であるのかは、同ハッシュタグならは分からない。だが、個別のツイートの意図はともかく、確かであるのは、このハッシュタグが「死にたい」を含むツイートにしばしば付与されているという点である。これはすなわち「死にたい」こと、あるいは「病んでる」ことが、まるで共通の趣味や好きなアニメのタイトルと同じように、誰かと繋がるために用いられてるという現実を示している。
だから、このハッシュタグの存在自体が、本書全体の主題である「死にたい」がメデイアであること、すなわち誰かと誰かを繋ぐ媒体としての性質を持つことを物語る、一つの事例だと言える。

「死にたい」とつぶやく

「死にたい」がコミュニケーションのひとつで、繋がるメディアであること。
確かに趣味や好きなアニメが同じ人と交流することと何も変わらない印象は抱く。
じゃあなぜ「死にたい」と呟くのか。

Twitterの画面上では、タイムライン(TL)という仕組みによって、さまざまなユーザーのツイートが現れては消え、現れては消えが繰り返されてゆく。それは「死にたい」もまた例外ではない。そのうえ、これまで見てきたようにTwitter上には深刻なものからカジュアルなものまで、有象無象の「死にたい」が飛び交っているから、自身が少々深刻な「死にたい」を発しても、それは他の「死にたい」のなかに埋もれて目立つこともない。

「死にたい」とつぶやく

確かにTLはあっという間に流れていく。
自分の「死にたい」と呟いても多くの呟きの川に流れて、その言葉の効力は薄まるような気がする。
自分の「死にたい」がたくさんの人に埋もれる安心感というのか、誰かに見られているが、そんなに真剣に見られてもない感覚。

本にも書かれていたが「死にたい」という言葉は身近な人間には言いにくい。
私も仮に「死にたい」という気持ちを抱いたとき、両親や友達など身近な存在にその言葉を言えるかと聞かれたら、できないと思う。
どうしてもその先の、心配させてしまう…ということが頭によぎる。
おそらく「死にたい」と言われた側は怒ったり泣いたり、何かしら説得をして私を止めるだろう。
「死にたい」という私の気持ちには寄り添ってはくれない可能性が高い。

だからこそ同じ気持ちを抱えて悩んでいる人と、今自分がいる場所から離れた顔も知らない相手とうっすら繋がっていることに安心を感じるのかもしれない。
別に「死にたい」に関わらず、自分と同じ趣味や嗜好を持った人とは繋がりたい気持ちは理解できる。
自分の「死にたい」という気持ちを否定されない場所。
気軽に気持ちを吐露することで、心を整理して、気持ちを楽にさせる。
最悪の形で「死にたい」を叶えないためにも、SNS上の「繋がりたい」は必要なのかもしれない。
そう思うと「繋がりたいタグ」は命綱だと思うし、少しでも生きたい気力を抱くことができるなら、それは必要な繋がりなんだと思う。

だが、もし実際に会ったりする場合は、座間の事件みたいなことが起こる可能性も高いので、よっぽど信頼できる人以外とはやめといたほうが良い。
「死にたい」や「#病み垢さんと繋がりたい」は画面上のやりとりで止めた方が良いコミュニティな気もする。
その辺の見極めさえ間違えなければ、お互い助け合いの場になるのだろう。

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