りかを

作業療法士として仕事をしてきました。最後の職場であった訪問看護事業所の非常勤を退職して…

りかを

作業療法士として仕事をしてきました。最後の職場であった訪問看護事業所の非常勤を退職して1年。書き溜めていた実家の介護をもとにした話を、少しづつ載せられたらと思います。

マガジン

  • 遠距離介護記録

  • 認知症の父と、母とわたし(遠距離介護記録前夜)

最近の記事

ケアマネさんを決めるって、ここから?ー遠距離介護記録5

 要介護2で届きました、と包括の担当者に連絡したら、「ではケアマネさんを選んで下さい」と言われた。  どういうこと?要支援の間は包括でみるけれど、要介護になったら別のケアマネさんを選ばなければいけないらしい。  ケアマネージャーリストを見るものの、名前と所属、所在地だけの名簿を見てどう選べばいいの?  妹と相談しながら考えた。デイサービスなどの施設付きのケアマネさんではなく、独立型の居宅介護事業所の方の方が、利用施設を平等に紹介してくれそう。  ただ、病院併設のデイサー

    • 1か月後の再診ー遠距離介護記録4

       父は良くなってきているように見える。硬膜下血腫は吸収されているのだろうか?  「老衰宣告」医師の予約日。  着替えなど手伝い、朝食もそこそこに、妹とふたり、なんとか予約時間より30分前に連れて行った。  前回は前日にお願いしたけれど、今回は1か月前からの予約だから、そんなに待たされないだろうと思っていたのは勘違い。  先にM R I検査。恐ろしく混んでいる。40分待っても呼ばれない。通りがかったスタッフに、 「言われた時間に来たけれど、まだですか」と聞くと、「順番に呼

      • 習慣を変え始めた1か月ー遠距離介護記録3

         次の受診まで服薬だけで1か月。  妹とスケジュールをやりくりして 交代で泊まることにした。母がひとりで父の世話をしながら家事をこなすのは無理だ。転んだ父を起こそうとして一緒に倒れるか、精神的に追い詰められるか、どちらかが目に見えていた。  父は鎮痛剤を切らさず飲んで頭痛を抑えていれば、寝たきりというわけではなく、身の回りのことはゆっくりと、小さな失敗はしながらもだいたい出来た。言葉を交わし意思疎通することもできた。大好きな入浴は浴槽を出る時に介助を要し、時々億劫になって

        • 誰が入院させてと言った!?ー遠距離介護記録2

           救急当番医は、大学病院ではこの年齢の慢性硬膜下血腫の手術をしてくれない、地域基幹病院の名をあげ、そちらの方がいいからと紹介状を書いてくれた。鎮痛剤ももらい、迎えの妹の車で帰った。  夜間も自分の状況を分かっていない父は、よろよろと布団から起き上がりトイレへ行く。転倒リスクは高い。前立腺癌は緩解しているが、ずっと頻尿だ。  そのたびに横で寝ている母、あるいは隣室で扉を開けて寝ている私が、付き添う。この状態はしばらく続くことになる。  急に来てもらった妹も泊まった。  次

        ケアマネさんを決めるって、ここから?ー遠距離介護記録5

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        • 遠距離介護記録
          5本
        • 認知症の父と、母とわたし(遠距離介護記録前夜)
          5本

        記事

          英会話を「またまた」始める

           若い頃、漠然と外国語に憧れた。 まずは英会話だ。仕事にも役立つだろう。  知人の紹介で、個人で教えている方の自宅レッスンに通った。なぜ、個人レッスン?今思うと、話していたら話せるようになるのでは、という甘い期待だ。週1回1時間で、そんなことあるはずがない。こまごまと勉強したくなかったのだろう。結局、出産を期に終了した。  35年後、また英会話をやりたくなった。今度はラジオ英会話のアプリを利用した。無料の割に充実していて、見つけた時は感謝した。一文だけスケジュール帳のメモ

          英会話を「またまた」始める

          救急車を呼んでいいの?ー遠距離介護記録1

           数年前から父の物忘れはゆっくりと進んでいた。  物忘れを診てもらおうという誘いには全く乗らず、自分はどこも悪くない、と頑固に言い張っていた。  アルツハイマーだろうから受診したところで、物忘れが良くなることはない。無理にあるいは騙すように言いくるめて受診しても、無理強いされたことはまだ覚えていそうな段階だ。  家長気質の強い父と、ずっと離れて暮らしていた長女の私。関係を悪くして言うことを聞かなくなったら困ると思っていた。もっとすぐ、1時間かからずに出来事を忘れるようにな

          救急車を呼んでいいの?ー遠距離介護記録1

          パイナップルと父の骨折

           芯ごと食べられるという台湾パイナップルを買った。酸味が立ちすぎず柔らかく食べやすかった。生ごみが少ないのもありがたい。ついていた葉ごと上部を切ったものを試しに小さな庭に路地植えした。1か月後、ただ枯れているそれを見て、もう一度パイナップルを買ってきた。ネットで調べると、まず水にさして根が出てから鉢に植える方法が紹介されていたので、コップにさしてみた。  少しずつ根が伸び、本数が増えていった。成長するものを見るのは楽しい。20cm四方ほどの大きさの葉を広げているパイナップル

          パイナップルと父の骨折

          青ジソと父の受診

           庭のプランターのシソの種は、そこかしこに飛び散って、春になるといろいろな場所で伸びる。刺身を買ってきたら、母はキンチョールと小さなザルを持ち庭に出て、シソの葉を取る。刺身の皿には千切りにした大根と魚ひと切れに一枚ずつあろうかという数の大葉が添えられた。「巻いて食べろ」と母は言う。  父は還暦を過ぎてリタイヤしてからリウマチで整形外科にかかるようになった。クリニックで紹介を受け、隣町の国立病院の専門医にかかるようになって新薬を処方され、だんだん症状は治まってきていた。すで

          青ジソと父の受診

          ブルーベリーと父の直らない修理

           梅雨が明けた頃、「ぴーよに食べられてて、少し赤いのしか残ってなかった、食べ頃だけ食べていくんだから」と、母は小ぶりなタッパーに10粒ほどのブルーベリーを「ちょっとつまんで」と出してきた。ヒヨドリのことをぴーよと呼ぶのを聞くとかわいいなと思う。  父の物忘れが始まった頃、母のかわいいところが影を潜めていたのは、不安のせいだったのか。  いろいろな物事を家の外の人と交渉して決めるのは父で、母が決めるのは家庭内の細々したことだったが、それでは回らなくなっていた。築50年の家の

          ブルーベリーと父の直らない修理

          キウイと父のОB会

           私の朝食はトースト、豆乳、ゴールドキウイとだいたい決まっている。トーストはチーズや納豆をのせることもある。冬場はキウイでなくりんごのこともある。幸せになれるらしいバナナもどこかで食べないといけないのだが、元来あまり好きではないため、マイブームは去ってしまった。  子供の頃にはキウイといえばグリーンだった。それでも十分食べられていたのに、大人になって初めてゴールドを食べたときにはびっくりした。えぐみ、酸味の少なさ、栄養のありそうな甘さに、もう虜だ。値段がグリーンに比べて高い

          キウイと父のОB会

          バナナと父の運転免許返納

          「バナナ食べると幸せになれるらしいよ、誰だったか脳科学者がYouTubeで言ってた。バナナのトリプトファンがセロトニンの原料になるんだったかな」  話し出してみるとうろ覚えはいつものこと。夫はふーんと言ってはいるが、私の声に呼応しているだけだろう。  私はこの数年あまりバナナを食べていなかったが、その動画を見てからしばらくの間、週一回バナナを買い、そのまま食べる気がしない時は、レンジで簡単にできるバナナケーキのようなものを作って一人分の朝食にしたりした。  子どもたちが

          バナナと父の運転免許返納