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救急車を呼んでいいの?ー遠距離介護記録1

 数年前から父の物忘れはゆっくりと進んでいた。
 物忘れを診てもらおうという誘いには全く乗らず、自分はどこも悪くない、と頑固に言い張っていた。

 アルツハイマーだろうから受診したところで、物忘れが良くなることはない。無理にあるいは騙すように言いくるめて受診しても、無理強いされたことはまだ覚えていそうな段階だ。

 家長気質の強い父と、ずっと離れて暮らしていた長女の私。関係を悪くして言うことを聞かなくなったら困ると思っていた。もっとすぐ、1時間かからずに出来事を忘れるようになったら、連れて行こう。忘れる方が扱いやすい、ときれいに言えばそう考えていたけれど、連れて行く労力と効果を天秤にかけたとき、私にとって労力が重すぎただけだった。


 運転免許の更新時の検査で「認知症ではない診断書」が必要となった時、受診を拒んだ父を免許センターへ乗せていき、免許返納に漕ぎつけた。ほっとした。認知検査よ、本当にありがとう。
 父は「認知症」と診断されるのを恐れているのだな、とわかったできごとでもあった。

 車を手放すと、田舎では買い物が難しくなる。生協の個別配達の手続きをしてやり、注文書の書き方を母に教えた。そして、自分の目で見て買いたい母のため、月に2回泊りがけで実家に通うようにした。

 母のストレスは限界に近かった。父が同じことばかり聞いてくること、直らない修理を繰り返すこと等にイライラしていたので、母の支えになればと思っていた。母が耐えられなくなってしまったら、二人暮らしは維持できない。
 私はまだ細々ながら仕事を続けていたかった。とりあえず、同居や施設入所ではなく、今の暮らしを続けてもらって…その先はなるようになるだろう。


 そんな暮らしが2年ほど続いた金曜日の晩。
「お父さんがいよいよ悪いんだ」と母からの電話。頭痛とめまいが強くて、2日寝込んでいると言う。「私に電話すると言うと、しなくていいって言うから、すぐ電話できなかった」なぜそんな状況で本人の判断を聞くのかと、母を歯がゆく思う。

 土曜日朝から車で3時間かけ実家に到着。
 布団をかぶっている父と話し様子を見て、明らかな麻痺はないけれど、脳で何かは起きていそうだ、医者には連れて行かなければと感じた。    父は寝てれば治る、たいしたことない、の一点張りだ。実際、おかゆをちょびちょびと食べ、立ち上がってヨロヨロと伝い歩きでトイレに行く。

 母によれば、目に見えて悪くなっているようではない。急変しそうにも思えない。だらだらと悪くなってその状態で止まっている感じ。
 そもそもまだ問題なく暮らしていたころから、時々めまいで1日寝込むことはあった。耳鼻科に通っていた時期もあったが、結局休んで治す暮らし方に落ち着いていたのだ。

 どうしたらいい?脳の検査ができる病院はお休みなのだ。
 休日診療担当の病院か?調べると、脳神経関係の診療科は担当病院にはない。本人が嫌がるのを無理に連れて行って、頭痛薬もらって?それからどうつながる?これは脳を診てもらうチャンスだ。認知症も診てもらえるところにかからなければ。

 1日待って脳神経科に連れて行くのか・・・ああ、でも。不安が襲ってくる。連れて行くのもたいへんだ。私と母で連れ出すのには抵抗するだろう。具合の悪い父を引きずり出すなんてたいへんだ。元気な時はなお行かないのだが。

 では、ここは救急車か?救急車のお迎えが来たら、対面を重んじる父は素直に乗るだろう。救急車なのか?この程度で呼んでいいのか?救急の意味は?歯がゆさでは、母より私の方がひどいと気づく。

 自治体の「救急を呼ぶ前の」相談窓口に電話してみる。看護師が応対してくれた。「救急車を呼んだほうがお父様のため」と言ってもらってやっと決意できた。父のためと言ってくれたのが響いた。助けられた。

 私は「自分で適切な病院を選んで」「明日以降に嫌がる父を連れていく」という二つのハードルから、「救急車を呼ぶ」という平坦な横道を選ぶ罪悪感にもがいていたのだ。つまり、自分の問題だ。大したことないのにと誰かに叱られてもいいや、救急車をありがたく使わせていただこう。
人生初めて、119番に電話した。

 父は救急隊員を待たせて、トイレを済ませ、支えられながら門を出る。何事かと出てきている近所の方々に、「お騒がせしてすみません」と元気そうに言ってストレッチャーに乗った。救急車に乗るのに格好つけてどうする。見ていて腹が立つのを抑え込む。

 同乗した私は、「こんなことで呼んでよかったですか、ごめんなさい」と救急隊員さんに詫び、「大丈夫ですよ」と優しい言葉をかけてもらって安堵する。本当にありがたかった。

 救急当番病院で脳のCTをとってもらい、父はベッドに寝かされ、いびきをかいて寝入った。疲れたのだろう。
 当番医はベテランの男性医師。画像を見せながら言った。
「右側の慢性硬膜下血腫。3か月ほど前に転倒しませんでしたか。その時血管が切れて、徐々に血液がもれて脳を圧迫して今になって症状が出たのでしょう」

 そうですか。そういえば夜間トイレに行くときにこけてふすまに穴開けたと母に聞いたのが3か月前か。
 県の基幹病院への紹介状と、鎮痛剤をもらった。訳がわかればほっとして、ありがたさが込み上げた。

 連絡した妹が迎えに来てくれるのを待った。
 
 この先どうなるのだろう。眠っている父と、ベッドサイドに座っている自分を俯瞰で見ている光景が、くっきり記憶に残っている。
 

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