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習慣を変え始めた1か月ー遠距離介護記録3

 次の受診まで服薬だけで1か月。

 妹とスケジュールをやりくりして 交代で泊まることにした。母がひとりで父の世話をしながら家事をこなすのは無理だ。転んだ父を起こそうとして一緒に倒れるか、精神的に追い詰められるか、どちらかが目に見えていた。

 父は鎮痛剤を切らさず飲んで頭痛を抑えていれば、寝たきりというわけではなく、身の回りのことはゆっくりと、小さな失敗はしながらもだいたい出来た。言葉を交わし意思疎通することもできた。大好きな入浴は浴槽を出る時に介助を要し、時々億劫になって休んでいた。


 両親は長年、2階で布団を敷いて寝ていた。
 母と私がすでに起きて家事を始めていると、8時を過ぎた頃、父が寝室の雨戸をあけている音がするのは、調子の良い日。全然起きてこない日が多く、8時半頃、雨戸をあけて父を起こす。階段の上り下りは付き添いか見守り。日によって調子の波がある。

 起きたら新聞を持ってトイレに30分。決まりきった習慣だ。年を取ると習慣に生きている、いや習慣に生かされているのか。
 失禁は少ないが、パンツやズボン下にシミをつけることが多く、早いうちに紙パンツをはかせた。テープのついていない紙パンツにしたら、これまでの下着と区別がついていないようで、何も言わず履いていた。こんな状態でも自分は介護などされていない、必要ないと思っているのだが、紙パンツ(リハビリパンツ)のパンツ感には助けられた。
 下着を汚されて洗う手間が省け、母の怒りのゲージは少し下がった。心配だから怒るのだろうけれど。

 それから着替え。服を揃えておくと、時々間違えることはあるが、ゆっくり30分かけて自分でできた。着替えの途中で休んだり、目についた毛玉やゴミをとったり、靴下を履く前に爪切りを始めることが母の癇にさわった。私が老健の認知症フロアで働いていた頃、よく目にした光景だ。
 母が叱責すると、「なんであかんのや」と我を通す父。母をなだめつつ、一部手伝いながら、できるだけ待つ。手伝われることを嫌がる父。自分のペースで動かないと、何が何やらわからなくなるようだ。
 脳の処理スピードが遅いのだから、
速くするのは無理な話。

 母が怒るのは、これまで通り父を待って朝食にしようとするからだ。長年、ふたりで食事を共にしてきたのだから。そして私を待たせていることにも気を遣い、早くと思うからだ。

 母も習慣の人だ。いや、習慣の人じゃない人っているのか?
「先に食べよう、お父さんはゆっくりしてもらって」

 母と私は先に食べることにした。父は自分のペースでできることをやってもらえばいい。父の着替えを横目で見ながら朝食。習慣は変わっていった。
 私達が食べ終わった頃、父は着替えを終え洗顔、入れ歯装着に、洗面所へ向かう。

 ひとり食卓に着くのが平均9時半、スプーンでおかゆとみそ汁、おかずを食べる。食べるのは病前の半量程度だが30分かかった。朝食が終わるのは10時過ぎ、11時近い日もあった。一仕事終えた父は、テレビを眺めながら寝椅子で休んだ。時々眠りこけて。

 すべてが遅いのを待つ日々だ。


 私にとっても新しい生活に対応することがつらかった。習慣を変えていく作業だ。
 妹とスケジュールを調整して数日おきに実家に詰める。妹とふたりで相談し、交代できたから続けられたことだ。

 私は週1日だけ訪問リハのパート勤務を残していた。両親の介護を予測して仕事は少しずつ減らしていたのだが、もうやりくりができなくなっていて、この月いっぱいでやめることにした。

 仕事をやめるとき、いつも心残りなのは職場ではなく、利用者さんたちだった。辞めて担当が交代すると伝えるのがしんどい作業だ。
 そこで、担当利用者さんがリハを必要としなくなった時、私は担当を減ったままにしてもらっていた。そうして自分のダメージを減らしておいたはずなのに、数の問題ではなかった。
自分のキャパシティや切り替えの問題だった。

 車で3時間の実家との行き来だけで体力的に疲れる。
 1階にベッドを入れて寝室を移すことや、この先の介護体制について以前にもお世話になった包括の担当者に相談したりと気疲れもあった。

 父は少しずつ表情が良くなって回復が感じられた。あれ、良くなってるよ。
 そうこうするうち、あの「老衰宣告」医師の受診の日が来た。

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