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愛してるって最近言わなくなったことについて

愛してるって最近言わなくなったのは本当にあなたを愛しはじめたからってかの有名なゴスペラーズの歌詞があるけれど、いやいや愛してるって言ってくれ(トヨエツ懐かしい)とか言うつっこみも見たことがあるんだけど、どうやら言葉にならないものというのはあるようで。
それはきっと誰かと長く生きてゆくとみんなに訪れるのではないでしょうか。それは怠惰とかじゃなくて、ぴったりくる言葉がないくらいに複雑な要素が入り混じっているのではなかろうか。逆に愛してる(love)と言う西洋の借り物みたいな言葉ではしっくりこないのは正しい。
それは誰かとの時間を共にして色々ぶつかっては乗り越えた証で、恋愛ごっこからの脱却だとわたしは思うのですが。恋愛に限らず、限られた誰かとの関係にのみに当てはまる言葉というものはあるかもしれないけれど、大きな枠に全てを当て嵌めるのはそもそも難しい。人間はそんなに簡単なものではないとわたしは思っている。
もうすでに当時、ゴスペラーズのこの歌からそれを汲み取っていた大人たちはしみじみ聴いていたのかもしれず、そんなことは知らない子どものわたしはいろんなところで流れているその歌詞を「スピード落とせ」という道路表示くらいはいはい、と聴いていた。そんな子ども時代を考えるとすごい発見だった。わたしも知らぬ間に大人になったのかもしれない。
愛は、明治以降に翻訳から入ってきているらしい。はじめの方はloveを訳しても、日本語にぴったりくる言葉がなかったようで、様々な漢字を使ってその時その時で表現していたらしい(これは川上弘美さんとロバート・キャンベル氏の対談で話していた)I love youを夏目漱石が月が綺麗ですねと訳したみたいに日本人にとってlove は直訳できないが正解なのだと思う。もっと複雑で多様で、そこには嫌悪さえも入り混じり困惑し、それでもなぜか一緒にいることを望むと言ったようなものなのだと思う。ゴスペラーズの人はそれを肌感覚として感じ、愛について問題提起し、再考し、そして歌詞にしたのではないか。今となってはこの歌詞があったから考えられたことは大きいかもしれない。
言葉が喋れないと愛していると言ってくれ、という当たり前のことを望むだろうし、その願望としての「愛している」は言葉にされる以前の愛で、そこには全てが含まれているような気がするけど、言葉が話せて、愛しているという言葉を口に出すほど、その空虚さが浮き彫りになる。だからこそ愛してると最近言わなくなる。
どちらも同じくらいの質量なのかもしれない。

でもこの愛の感じももう古いのかもしれない。今はもっと軽くて変化しやすいのものに変わっている気がする。もっと多様化しているからこそ、もっとシンプルなものへ。
わたしは昔と現代の間にいて、それらをじっと観察している。
個人的感覚で言えば、今時のloveの感覚を持っていたわたしは歳を重ねるごとに、母と父が離婚しなかった理由もわかってゆき、そして明治に戻り、今平成のゴスペラーズの歌詞にまたぶつかったところだった。

心の奥に届く文章を書きたいと思っています。応援していただけたら嬉しいです。