見出し画像

第3章#28 介護と働き方

もくじRemake『ホワイトな学校へ』

(約4200字)

介護については、誰でも直面する大きな問題であろう。

子育てよりも介護の方が両立に悩まれることが多いのではないだろうか。
私は、先生方に、ぜひ、介護と仕事を両立させてほしいと思っている。


母のこと

私の母は、8年ほど前に認知症を発症した。きっかけは、大腿骨骨折。
入院中に急に頑固になり、リハビリ病院に転院するのを嫌がった。
それまでは、自分の病気の治療のためなら何でも頑張ろうする人だったのに、おかしいなと思った。
リハビリ病院では、順調に回復し、歩けるようになったが、退院してすぐに認知症の症状が現れた。校長になって4年目のことである。

母の場合、まず、短期記憶に障害が現れた。
少し前のことを忘れてしまうのだ。
母としても、なんだか頭がおかしいと、不安になっているので、かかりつけ医に相談したら、大学病院の「ものわすれ外来」を紹介してくれた。
検査の結果、アルツハイマー型認知症とわかり、薬を飲んで様子を見ることにした。
要支援に認定してもらえて、ケアマネージャーさんが付き、週に数回ヘルパーさんにも来てもらえるようになった。
ヘルパーさんには、散歩がてら買い物に付き合ってもらうことにした。
生活のリズムが整って、ほっとしたのも束の間、母の症状は、どんどん進んでいった。

薬は、曜日と、朝、昼、夜の分を小分けにして、ケースに入れていたのだが、減り方が早い。飲んだことを忘れて、1日に何回も飲んでしまうようになった。
給湯の温度を、目一杯50度まで上げてしまう。
熱いので、水でうめて使っているようで、火傷こそしなかったが、危ない。
そして、お風呂の入り方を忘れてしまった。
湯船に浸かって、髪を撫でつけて出てきているようだ。
認定は、要介護になった。

薬の問題は、早急に何とかしなければならない。
薬を置いておけないので、とにかく、毎日誰かに来てもらって昼の薬を飲ませてもらうことにした。
その頃、私は、実家から徒歩15分ほどのマンションに住んでいた。
朝、仕事に行く前に実家に寄り、母に薬を飲ませる。
帰りに実家に寄り、夜ご飯を食べさせ、薬を飲ませる。
次の日の朝の食事も置いてくる。もしかしたら、朝までに食べてしまうかもしれないが、それは仕方ない。栄養が足りているのでよしとする。
介護認定が上がるのを待っていられないので、それまでは、実費で対応した。
お風呂については、週に数回、デイサービスに通って入れてもらうことにした。


実家に引っ越す

朝夕通うのは大変なので、家族皆で実家に引っ越すことになった。
ここで問題が。
母が、真っ先に夫のことを忘れてしまったのだ。
夫が庭を掃除していたら、母に「どちら様?」と聞かれたそうだ。
私の夫だと説明しても、腑に落ちなかったらしい。
そんな人が家の中にいようものなら、110番通報されそうである。(母は、結構後まで、文字を読んで行動することができた。電話のところに、私と妹の電話番号を張り、かけ方を書いておけば、それを読んで電話ができた。)
夫は、子育てでは役に立ったが、介護では役に立たないことが分かった。

仕方ないので、夫は、隣のアパートに住み、私と子供が、実家に住むことにした。(母は、孫の顔は覚えていた!)
実家に住むようになってからも、昼間、母から電話がかかってくることがあった。
「なんか、お金があるのよ。今日、来てくれる?」
一緒に住んでますが…。
家に帰ると、もう、私に電話をしたことは忘れてしまっていて、お金は、仏壇に置かれている。
「あら、来てくれたの?」
と、嬉しそうだ。
毎日、新鮮に喜んでもらえるのはいいのだが…。


どんどん進む

一緒に住み始めてわかったのだが、母は、時間の感覚がなくなっていた。
夜中に起きだして、テレビをつけてご飯を食べたり、明け方出掛けたり。
方向感覚もなくなってきて、帰って来られないこともあった。
そういう時は、家族総出で捜索である。
2時間経っても見つからないので、警察に連絡したところで、ひょっこり戻ってきたこともある。本人は、散歩をしていただけだと言うし、どこを歩いていたのかなど覚えているわけもない。
その時、警察官に、必ず持って出かけるものに、私の電話番号を張っておくとよい、とアドバイスをもらった。
母は、必ず杖を持って出るので、その杖に電話番号を貼った。

この間、私は校長として2校めに異動していた。
前の地区校長会の歓送迎会に出席していた夜のこと。
携帯に知らぬ番号から電話が掛かってきた。
「H駅です。Kさんを、お預かりしているんですが…」
その駅は、私たちが以前住んでいたマンションの最寄り駅ではあるが、実家からは結構遠い。
駅の近くで転んでいるところを通りかかった人に助けられ、杖の電話番号を見て、駅員さんが連絡してくれたのだった。
私は、歓送迎会でもらったゴージャスな花束を持ったまま、母を迎えに行った。


二度めの骨折

その年の冬、母は家の中で転んで、反対側の大腿骨を骨折した。
入院後はリハビリ病院に転院して、また、歩けるようになった。
今までは、家での主な居住場所が2階と3階だったが、階段の上り下りは危ないので、退院後は居住場所を1階に移そうとは思っていた。

そうしたら、リハビリ病院のケアマネージャーさんに、
「N=^_^=さん、お仕事していらっしゃるんですよね。だったら、ご自宅でこれまで通りみるのは、無理だと思いますよ。」
と言われた。ケアマネさんによれば、母の認知症はさらに進んでいる、
グループホームだったら比較的すぐに入れるから、と勧められた。
私は、妹と相談して、いくつかグループホームを見学した。

でも、まだ、もう少し、これまでどおり自分で面倒が見られるのではないか、と、迷いはあった。
グループホームは、毎月結構いいお値段である。
夫は、お金で解決できるなら、その方がいいという。


グループホームへ

退院までに一つのグループホームから、入居可の返事が来た。
退院してから入所までに3泊、間が空いてしまい、その3晩だけ母は自宅で過ごすことになった。
その3晩のために、ケアマネージャーさんが介護ベッドを手配してくれた。
1階の部屋を片付け、そのベッドを設置して母を迎えたら、母は、自分の家がよくわからないようだった。
トイレの場所もわかっていない。
夜中トイレに起きたときに迷ったり、玄関から出ていったりしたら大変なことになるので、その夜は、私が寝ずの番をし、昼間は以前通っていたデイサービスが、2日間だけ受け入れてくれた。
2晩めは、妹が寝ずの番をした。
3晩めは私が寝ずの番をし、翌日、グループホームに入所した。
私たちは、3晩母をみて、家での介護は無理だと吹っ切れた。

グループホームには、一人一部屋が割り当てられている。
母の部屋に入るとき、入口に自分の名前があるのを見て、
「ふふ、Kさま、って書いてある。」
と嬉しそうだった。
会いに行けは、母は、家族とすぐにわかって嬉しそうにしていたが、例の感染症の流行で会えなくなり、その間に私のこともすっかり忘れてしまった。

母は、病気で入院したことを境に、現在は介護医療院に転院している。


余談~母の生き方

母は、父とお見合い結婚した。結婚するに当たり、母は、勤めていた銀行を辞めた。
当時家では下宿屋を営んでいた。大学が数多くある地域で、当時、親元を離れて暮らす学生は、下宿住まいが多かったようだ。
下宿は、朝ご飯と夜ご飯の賄い付きである。
結婚当初は、お手伝いさんがいたようだが(というか、お手伝いさんがいるという条件で結婚したのだが…)、下宿の賄いはすぐに母の仕事になった。

父が、会社を辞めて製本工場を始めたときも、最初は工員がいた。
しかし、ほどなく工員は解雇になり、母が製本工場を手伝うことになった。

父は、
「これからは女性だって、大学に行って、仕事をもって働くべきだ」
と考えていた。
私は、そのように育てられ、そういう視点で母の生き方を見ると、これでいいのかと疑問をもった。

日単位で見ても、母の予定は家族に振り回されることが多かった。
父と私たちが釣りに行って、メゴチをたくさん釣ってくれば、そこからメゴチをさばくのに何時間も格闘し、天ぷらを揚げる。
正月に向けて年末は大掃除をし、おせち料理を作り、正月になれば次から次へと来る客に料理を出したり、酒の燗をしたりと、座る間もなかった。
家族の都合に振り回される人生でいいのか?と、若い頃の私は思っていた。

その後私も家庭をもつようになり、母の生き方が少しわかるようになった。家族のことに時間を使うのは、自分のために時間を使っていることと同じ感覚である。
うまく書き表すことができないが、私=子供という感じ(夫には、=とはいかないが…)。
子供が「明日までに、これ準備しないと…」と言えば、「何で、もっと早く言わないの!」と文句は言うが、絶対にやる。やらないという選択肢はない。それで寝不足になったとしても、寝不足は日常である(詳しくは、「仕事の流儀」で)。
「家族の都合に振り回されている人生」という感覚ではない。
むしろ、自分の人生を全うしているという感覚。

母は、私が教員になったときも、管理職試験に受かったときも、校長になったときも、自分が合格したかのように喜んでいた。
校長として着任したときは、叔母と一緒に学校を見に来たんだそうだ。
声をかけてくれればよかったのにと言ったら、
「いいの、いいの。お仕事の邪魔しちゃ悪いし、どんな学校か見たかっただけだから(^-^)」
と、満足げだった。

だから、母の介護と仕事との両立を考えたとき、私には、仕事を辞めるという選択肢はなかった
それは、最も母が残念がることだから
母の願いを考えれば、私は、これからも仕事を続けていく。

年を重ねると、見えてくることがある。
昔は、何でそんなことを大変だと感じていたのだろうと、思うこともある。
時が解決してくれることも、多々ある。

今、仕事が大変だと感じている先生方、仕事は続けた方がいいです。
いずれ、自分の拠り所になります。

自分で親の介護はしたいという気持ちはよくわかります。
発症してから9年間、私は、もし、自分で世話をしていたら、途中で仕事は続けられなくなっていたと思います。
親戚の手前とか、いろいろ事情はあると思いますが、まずは、自分ができるだけストレスなく生きられることを第一に考えたいものです。
自分のストレスが少なければ、それが親御さんにとっても、一番いいことであると思うからです。


#ホワイトな学校
#働き方改革
#負担軽減
#負担感の軽減
#仕事について話そう
#この経験に学べ
#管理職
#校長
#介護と仕事の両立
#大腿骨骨折
#認知症
#グループホーム
#介護医療院
#創作大賞2024
#ビジネス部門

よろしく😻