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「知は力なり」の私なりの解釈 学ぶことの意味について【改版】

 今回の記事では、学ぶことの意味について、私自身の考えを書いてみたいと思います。【改版】です。

 イギリス経験論の大哲学者、フランシス・ベーコンの名言に「知(知識)は力なり」というのがあります。
これは私の好きな名言です。人間精神が解放される、(個人の、あるいは万人の)無限の潜在的なパワーが解き放たれ、人類の進歩が駆動するパワフルなイメージを抱きます。
 この名言についてベーコンが意図した意味から拡大して、私なりに解釈してみたいと思います。
「知識は力なり」
千夜千冊によると、知識は何を指すのか。知識をどう定義するかは、多様な解釈がありうると思うけれど、知識が一体どういうものなのか、それは定説がないのだといいます。


 第一に、「知識は力なり」の知識は、知力や能力ではない。
知性や理性だと捉えてみます。そして、その知性や理性は測定できないものです。つまり、テストや表面的な振る舞いではわからないし、数値化できない潜在的なパワーです。
 そのパワーは、誰にも備わっています。例外はない。しかも相対的には捉えることができず、遺伝子に還元することもできない。高めることはできるが、誰かがそのパワーの威力を評価したり、大きさを判断することができない。
そんな実体のないパワーが物理的にあるはずがない、と思うかもしれない。
しかし、逆に問います。能力や学力こそ、まやかしではないだろうか、と。
能力という指標は幻想であり、結果論であり、信仰であるのだとしたら、見える景色が変わってきます。アダム・スミスのいうように、知性とは考える力であり、基本的に誰にも備わっています。相対的に捉えるのはナンセンスなのです。
 第二に、「知は力なり」の知識は能力ではないのだとしたら、好奇心や求知心、探究心だと定義することができます。ベーコンが本来の意味でどう使ったかはともかく、知を求める心が知識にアクセスされ、知恵となり蓄積する。好奇心は人間に共通して本来備わっているものであり、それが知恵という生きる力の源となります。人生100年続く、一生ものの力です。 
 第三に、「知は力なり」の知は、個人のパワーであるのみならず、人類全体の推進力です。
科学の進歩は集合知によるところが大きく、知識の発展は本来集合的な営みだとするなら、知は人類全体の諸事物の改善であり、人類の進歩の推進力です。
以上をまとめます。
「知は力なり」
それは、好奇心や探究心から始まります。人間に本来共通して備わっている根源的欲求です。
その一人一人の欲求は、知性という人間に普遍的である、数値に還元できないパワーとリンクします。それが集合的な営みとなって人類全体の推進力となる。この力が諸事物を改善し、世界をよりよいものとするのではないでしょうか。
 「知は力なり」の「知」は、知性、好奇心、集合知だと解釈すると書きました。これに「謙虚さ」と「感性の豊かさ」を補足します。(ただ、この二つは「力」だとは捉えません)
知性と好奇心は、集合知と結びつき、人類全体の推進力となると書きました。それに対して、この二つは、科学によるエンジンというよりかは、倫理や想像力、無意識層の力だと言えます。いわば、古層の力です。
謙虚さは、ストア哲学の思想をイメージしています。エゴを抑える知性です。科学的な知性と好奇心だけでは、方向を見誤れば、大変なことになってしまいます。そこで哲学と文学の出番です。
 世界的ベストセラーになった、ハンス・ロスリング氏らが著した、『ファクトフルネス』という本があります。その本で、著者たちは、「なによりも、謙虚さと好奇心を持つことを子どもたちに教えよう。.…(p.316)」と述べています。ハッとさせられる言葉でした。
この記述でいう謙虚さとは、ストア派的な意味とはちょっとニュアンスが違うのかもしれませんが、もし自分が子どもだったら、子ども時代に馴染んだかどうかは別にして、ストア哲学の思想でいう謙虚さ、エゴを抑える技術を簡単にでも、知りたかったと思いました。
 ストア哲学の力はすごいです。最初は『自省録』を読み、ロルフ・ドべリ著『シンククリアリー』でかなり馴染んだのだと自覚していますが、おかげで、だいぶストレスフリー近づいた気がします。
競争原理の解毒剤だと思います。「自分を重要視しすぎないようにすること」ストア哲学の思想のエッセンスとして、『シンククリアリ―』で詳細が語られていますが、子ども時代や受験生だったころの自分に伝えたい知恵です。子どもに限らず、人間社会を生きるうえで、あるいは、人間関係を健全にする上で大切な知恵だと思います。
 感性の豊かさを大切にして生きること。これは自分自身が大切にしていることでもありますが、もっと早く気づいておきたかった。もし子どもができたとしたら、必ずメッセージするでしょう。
小説をたくさん読むことが大切なのは、感性の豊かさが磨ぎすまされるからです。人間的な感受性や想像力、共感力が養われる。これは、AIがどれだけ発達しても、失われてはならないと考えています。
20世紀最高の知性、バートランド・ラッセルの『幸福論』に不幸の原因として、印象的な文章があります。

人生はコンテストであり、競争であり、そこでは優勝者のみが尊敬を払われることになっている。こういう考え方は、感性と知性を犠牲にして、意志のみを不当に養うという結果をもたらす。.…(中略)ピューリタリズムの時代は、意志だけは極端に発達した一方、感性と知性は衰えてしまった人種を作り出したのかもしれない。そして、そんな人種が、おのれの本性に最も適したものとして競争の哲学を採用したのかもしれない。

ラッセル著『幸福論』(P.59)

これは現代日本においても、当てはまるでしょうか。軍拡競争に特化してしまうと、意志だけが極端に発達し、感性や知性が衰えてしまう。特に教育にとって欠かせないのは、ウェイトとしては豊かな感性や知性のほうが重要なのに、競争原理が強いと、意志ばかりが強くなり、感性や知性がないがしろにされてしまう。このようなことを私は危惧しています。


この記事を書くにあたって参考にした書籍を付します。

この本は、能力信仰やメリトクラシー(能力主義)がいかに現代世界を歪ませているかに気づかせてくれました。

この本は、IQという概念の「いかがわしさ」を再認識させてくれた。米英から新自由主義が生まれた背景には、「IQ的人間観」があったというのは、本書で初めて知りました。同時にメリトクラシーの問題についても論じられています。

この本で、トッドのIQやメリトクラシーに対する批判的態度を知り、共感した。アダム・スミスの「考える力」の平等性については、興味深かった。能力の相対評価は、歴史上最近のことに過ぎないのかも。

このレビューでも、上の本を取り上げています。

現代を代表する知性、内田樹さんのご著書。日本の将来について真剣に考える上で非常に心強い本。個人的には、日本人必読だと感じた。教育についての考察は大変興味深い。「教育に競争原理を持ち込んではならない。」


ご清聴ありがとうございました。


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