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随想(詩について)

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2023年8月の記事一覧

「捧げた詩」ー 辻征夫さんのこと

「捧げた詩」

この世は大きいと思います。そのとてつもなく大きなこの世の信頼の水位を、この世全体の信頼の水位を、その人が生きているというだけで少し上げてくれる、そんな人がかつていました。

辻征夫さんにはじめてお会いしたのは、正確には受賞記念パーティーでした。しかし、きちんと話をしたのはそれから数年後、詩誌「詩学」の投稿欄の選者をしたときでした。その選者のメンバーの一人に、辻さんもいたのです。

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できあがってしまったものの悲しみ ー 三橋聡のこと

「できあがってしまったものの悲しみ」

今度出す本の中で、ぼくは三橋聡(みつはしさとし)の話もしています。三橋が五十歳で亡くなったのは2004年です。もうずいぶん前になりました。

あの時、三橋の葬式のあと、奥さんに、三橋の作品を全部送ってくれませんかと頼んだら、きちんとファイリングをしたものが送られてきました。生前に本人がまとめていたそうです。その送られてきたファイルの中に、奥さんからの手紙も挟

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なにものも持たないところで ー 大岡信さんのこと

「なにものも持たないところで」

若い頃に、ある人の出版記念会に参加しました。私が第一詩集を出してほどなくのことですから、1970年代のことです。詩集を出した人は当時、雑誌に大岡信論を連載していました。大岡さんとの接触も頻繁にあったようです。そのような関係でしたので、その日の出版記念会には大岡さんも来ていました。

その記念会は立食ではなく、きちんとした長いテーブルがあって、おのおのの席が決められ

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書けなくなるということ ー 辻征夫さんのこと

「書けなくなるということ」

「げんげ忌」に参加して、席についたら隣に辻憲さんが座っていました。辻憲さんは辻征夫さんの弟。画家です。「憲さん、お久しぶりです。」「ああ、松下育男さん、元気?」。ということで、憲さんの隣に座って「げんげ忌」に参加しながら、昔のことを思い出していました。

辻征夫さんにお会いしたのは、私が30代の半ば、もうきちんとした詩が書けなくなっていた頃のことです。「詩学」の投稿欄

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「焦らなくてもよいのだということ」 ー 安岡章太郎さんのこと

「焦らなくてもよいのだということ」

 もう半世紀も前のことです。わたしは靖国神社の裏にある都立九段高校に通っていました。飯田橋駅から坂道をのぼってゆくと、道が二股に分かれます。その中央に、くさびをうつように高校の校舎がありました。

 決してはつらつとした若者ではありませんでした。劣等感だらけの無口な高校生でした。

 そんなある日、小説家の安岡章太郎が高校に講演に来ました。安岡章太郎は九段高校

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ぼくは何のために詩を書いていたんだ

「ぼくは何のために詩を書いていたんだ」

 娘が小さい頃からピアノを習っていたんです。で、中学生の頃には横浜の我が家からわざわざ千葉県の下総中山の先生のところまで、毎週日曜日にはるばる通っていました。片道2時間半もかかる道のりですし、駅から先生の家へ歩く途中に、寂しげで危険な場所もありましたので、そのレッスンに僕も一緒について行っていたんです。

 子供を先生にあずけた後、外で待っていました。

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友人とは何か ー 岡田幸文さんのこと

「友人とは何か」

 もしもつらい時期に手を差し伸べてくれる人を真の友人と言えるのなら、数年前に亡くなった岡田幸文さんは、間違いなく僕の真の友人でした。

 岡田さんは僕と同い年で、性格もおとなしく、どこか僕に似ていました。そして岡田さんと知り合ったのは、まさに僕の最もつらい時期でした。

 僕は三十代で詩が書けなくなってしまいました。ろくな詩が書けなくなりました。目も当てられない詩しか書けなくな

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拍手でいっぱいになってしまった ー 桑原薫さんのこと

「拍手でいっぱいになってしまった」

 老齢になって会社をやめて、横浜のビルの一室で「詩の教室」を始めました。月に一度のペースで、参加者は十数人の小さな教室でした。この話は、会を初めてすぐの頃、たぶん二回目の時のことだったと思います。参加を申し込んでくれた人の中に、僕と同じような年齢(60代後半)の男性がひとりいました。そうか、あの年齢になっても詩に取り組もうとしているんだなと、感心していたんです

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