できあがってしまったものの悲しみ ー 三橋聡のこと

「できあがってしまったものの悲しみ」

今度出す本の中で、ぼくは三橋聡(みつはしさとし)の話もしています。三橋が五十歳で亡くなったのは2004年です。もうずいぶん前になりました。

あの時、三橋の葬式のあと、奥さんに、三橋の作品を全部送ってくれませんかと頼んだら、きちんとファイリングをしたものが送られてきました。生前に本人がまとめていたそうです。その送られてきたファイルの中に、奥さんからの手紙も挟まれていました。そこには、「風が強い日には、聡さんが帰ってきたように思われます」と、ありました。

その翌年、一周忌に参加しましたが、そのときの奥さんの明るく振舞う姿は、人としてとてもあざやかなものでした。あんなふうに生きるべきなんだと思いました。

ここに載せるのは、そのときに整理した三橋聡の詩集未収録の作品からの一篇です。詩集に選ばれなかった詩です。読んでいただければわかるように、出版された2冊の詩集におさめられた詩ほどの輝きはないかもしれません。しかし、それでも三橋はこの詩を、きれいに整理して本棚に置いて、死にました。
三橋がそのときに自分の死期を知っていたのかどうか、ぼくは知りません。しかし、日々弱ってゆく自らの身に来るであろうその日の近さを、感じていなかったわけがありません。

自分がなくなってゆくという感覚の中で、おそらく三橋は、2冊の詩集と同列にしてこれらの詩を並べ、ファイルしていたのです。

たぶん死ぬということは、すべての価値を等価にしてゆくことなのではないかと思うのです。

できあがった詩には、できあがったというそれだけで身にまとった尊厳があります。

できあがってしまったものの悲しみに手をふれるように、ぼくはこの詩を読みます。

「朝の国から」   三橋聡

人が去ったあとに
人がいる。
そして言葉と、
言葉のあいだでぼくは、
頬杖をつき。
草色の古墳公園で誰もが空を眺めてた。
ほんの一日。
ぼくたちにも昔があったっけ。
むかしむかし、
へたな鉄砲射ちがいたんだって
ある日はじめて猟にでて、
でもそいつが殺したのは、
自分だけ……。
みんな嘘だ。
土曜日の午後。
さみしい王国をでて、
ぼくたちは少し水を飲み、
それから、
少しづつ土に戻る。

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