まじょのむすめ

12年前に肺腺がんで旅立った母と当時乳がんだった私の闘病時の記録。 母とは親子であり姉…

まじょのむすめ

12年前に肺腺がんで旅立った母と当時乳がんだった私の闘病時の記録。 母とは親子であり姉妹のようで、がん友で。 11年前、母の1周忌に一度書きしたためていたものを少しずつここで書いて、母との思い出を振り返ろうと思います。

最近の記事

まじょのなみだ(27)

棺に納まる母はガラにもなく白装束を着せられ、 参列してくれた母の友人が 「まぁ、きれいな花嫁さん・・・。」と言った。 本当にウエディングドレス姿にしか見えなかった。 それからは葬儀の準備などで忙しく、あまり悲しむ間もなかったように思う。 遺影にする写真がなかなか見つからないのに苦労した。 普段から近くにいたから改めて写真なんて撮っておらず、 娘がケータイのカメラをおもちゃにして撮ってた画像ぐらいしかなかった。 その中の一枚、 ばぁばと孫ふたりでお茶しに行った時のシ

    • まじょのなみだ(26)

      だけど、手を握りながらみんなの到着を待つ間に母は息を引き取った。 間もなく、看護師さんが来て、優しく何度かうなづいた。 それからも何度も言った。 「ありがとう」 まだその辺にいるんでしょ? 「ほんっとありがとね!!」 それから酸素マスクが外された。 私は母からの唯一の遺言を守り、開いたままの母の口を閉じて、あごをずっと押さえていた。 「ちゃんとやってるで。」 泣きながら笑った。 親族が再度病室に集まっても、私は母の頼みをやめなかった。 みんな納得して 「お母さんら

      • まじょのなみだ(25)

        母は相変わらず下顎呼吸をしていたが、安定していたため 父も弟も一度自宅に戻った。 私は朝まで一緒にいるつもりで1人で残らせてもらった。 すっかり日も暮れて静かな病室の窓にはキラッキラの夜景が輝いていた。 度々脈や呼吸をのチェックに来てくれる看護師さんも、 できるだけ穏やかな時間を邪魔しないように気遣ってくれているようだった。 それまでは「ありがとう」なんて言えなかった。 お別れを覚悟するのが恐かったから。 だけど、感謝の気持ちでいっぱいだった。 意識のあるときには

        • まじょのなみだ(24)

          病室に飛び込んで、対面した母は 酸素マスクを付けて、顎を突き上げたり下げたりしながらもはや 「息をさせられている」ような感じだった。 昨日までのように、話しかけても返事はしてくれない。 なんとなく目がうっすら開いたような気はするけれど。 しばらくして家族や近所の親戚、母の友達のおばさんたちが駆けつけてくれた。 母は親戚や仲間たちと集まって旅行したり、にぎやかに過ごすのが大好きだった。 みんなが母の周りは楽しくて、家族親戚だろうが友人だろうが混ざって 結局大所帯でワイワイ

        まじょのなみだ(27)

          まじょのなみだ(23)

          翌日、この日は娘が園から帰ったら一緒にお見舞いに行こうと、 のん気に、いや、心を無にしたくて ひたすらパソコンのカードゲームをしていたのだったと思う。 突然、携帯の着信音。 ドキッとした。 恐る恐る電話に出ると、やはり病院からだった。 「お母様の呼吸が弱くなってとても危険な状態です。できればいらして下さい。 お孫さんやご家族にも会わせてあげて下さい。」 手が震えて止まらない。 「どうしよう、どうしよう・・・」 パニックになりながらも、とにかく早く行きたい。 母に会い

          まじょのなみだ(23)

          まじょのなみだ(22)

          まだ薬が効いていないようで、起きたり寝転がったりを繰り返す中、 「あんた、一生懸命なにを編んでたん?」と母。 数日前、寝ているだけと思っていた母の横で、娘の体操服のゼッケン付けをしていたのを実は見ていてくれたんだ! 嬉しかった。 「体操服にゼッケン付けてたんよ。 もうすぐ幼稚園の運動会の練習が始まるんだって。 おゆうぎのダンスがんばるって気合入ってるから本番見に行こな~。」 母「あぁ、あぁ、そうやったんね。孫ちゃんの運動会、見に行かなあかんね~。」 それからも何やら

          まじょのなみだ(22)

          まじょのなみだ(21)

          「痛みが激しくて寝れないようなら、 少し強めの睡眠薬もあるので利用するなら言って下さいね。」 と看護師さんが言ってくれたが、 今よりもっと起きている時間が少なくなってしまうかも知れないとのことだったので できるだけ使いたくなかった。 でも。。 痛みで険しい顔、そして目には生気がない母の状態を見ると辛い。 父と弟に相談し、その夜睡眠薬を使うことにし、 母が眠れるまで一緒にいようと体をさすり続けた。

          まじょのなみだ(21)

          まじょのなみだ(20)

          しばらくすると、じっと寝ていた母が痛みで頻繁に寝返りしたり、 「痛い~、痛い~」 と力ない声で唸るように。 私の前ではあんなに頑なに、 弱音を吐かずコーヒーも飲んだふりしてくれていた母が言うのだからどんなに痛いことか。 どうしてあげるといいのか分からないが、追加の鎮痛剤を点滴してもらい、 とにかく体をさすり続けた。 骨と皮だけのゴツゴツの体だけど温かかった。 「身の置き場がないねん」 と言って起き上がったり、常に動いている。 まるで魂が体から抜け出そうとしている作業

          まじょのなみだ(20)

          まじょのなみだ(19)

          それからはほぼ病室を出なくなっていった母。 私も、だた寝ている母の横でテレビやケータイを見ていたり、 裁縫道具を持ち込んで、娘の幼稚園の体操服にゼッケン付けをしたり、 自分のことをしていた。 せん妄状態の時に、 私の小さい頃のことを思い出して頭よしよししてくれたり、 ギュッとしてくれないかなぁと 横で添い寝してみたけれど、結局してはくれなかった。 そこらへんの意識ははっきりしているようだ。 静かな日々が数日続いた。 夜病室を出て、 次の日また病室に行って、 母が息をし

          まじょのなみだ(19)

          まじょのなみだ(18)

          食事は、おかゆ一口すら食べるのが必死。 眉間にしわを寄せた険しい表情で、 もはや全く欲していないごはんを食べることは苦痛になっているようだった。 緩和ケア科には、 一室をカフェスペースにし、ボランティアさんがコーヒーなどを提供してくれる日があった。 水分もほとんど口から取っていない母だけれど、車いすに乗せて一緒に行ってみた。 カフェの雰囲気で母も口を付けてくれるんじゃないか、 以前カフェをやっていたからコーヒーについてうんちくでも言ってくれるんじゃないか、 と期待して

          まじょのなみだ(18)

          まじょのなみだ(17)

          みんながいる時も、母は 「ほら見てごらん。うふふ。 すっごいかわいいのがひらひら浮かんでる。ほんとかわいいね~」 って幻覚を見ている。 私は、母にはもうお迎えの天使が見えているんじゃないかと、 その時ばかりは我慢できず、病室を出た。 そんな状態でも、母の元職場の同僚が仕事の相談をすると、 はっきりと的を得た回答をする。 みんなが母を頼りにしていると聞いていた。 きっと、仕事を急に休むことになり母は気がかりだっただろう。 それからは、より起きている時間が少なくなって

          まじょのなみだ(17)

          まじょのなみだ(16)

          先生からの話のあと病室に戻り、母には 「痛みが引いたら抗がん剤やろうって!だからがんばろな!」 と言ってその日は病室を出た。 でも…もし本当にすぐにお別れが来たら… でも、急にたくさんの人がお見舞いに来たら母に余命宣告されたことを 伝えてるようなものでは… この頃せん妄も激しくなっていた母だから、 なんとかごまかしてでもみんなに会わせてあげた方がいいのか…。 葛藤もそのままみんなに伝えた。 みんな母と私の間の空気感も察して 「たまたま近所に来たのよ~!またお茶

          まじょのなみだ(16)

          まじょのなみだ(15)

          母は私の前では全く弱音を吐かない。 きっとがん闘病中の私に、恐怖を与えないように。 また、乗り越える姿を見せようとしてくれているのだと思う。 それを感じていたから、 私は母の回復を100パーセント信じて、私も同じく完治するからと 前向きな話しかしなかった。 「死」など、母と私の間では絶対出ないワードで。 ・・・いや、お互いに避けていた。 しかし母は察していた。 わたしの弟や母友のおばさんには 「あとをよろしく」 というような事を言っていたという。 それでもあくまで

          まじょのなみだ(15)

          まじょのなみだ(14)

          なんとなくわかっていた。 「予想以上に衰弱が激しく、このままではいつお別れが来てもおかしくない状態です。 会いたい人にできるだけ会わせてあげて下さい。」 余命宣告。 「お別れは明日来るかも知れないし、もしかしたら何ヶ月もがんばってくれるかも知れない。」 という先生の言葉の後者だけを信じよう。

          まじょのなみだ(14)

          まじょのなみだ(13)

          旅行から戻り、真っ先に母のもとへ。 「楽しかった?」ってニコッとする母を見てホッとした。 だけど、 病室の冷蔵庫に、旅行前に入れておいたゼリーにはほとんど手を付けられていない。 母は食欲が戻らず、だんだん寝ていることが多くなっていった。 起きているときは笑顔を出してくれ、 「お母さんには見えてるんだけど、天井から模様が出てきたりすんねん。 薬の影響やろね。あんたらには見えてへんやろ?」 などと言う。 程なくして、先生から話があると別室に呼ばれた。

          まじょのなみだ(13)

          まじょのなみだ(12)

          母の入院計画は約10日間。 痛みを和らげ、食欲回復、体力回復を目指し、 その後いったん退院して抗がん剤治療を進めていく予定。 それから私は毎日母のお見舞いに行った。 モルヒネ点滴と骨転移への放射線治療が始まって、少し痛みが和らいだのか 「ゼリー買って来て!」とか 「家からTシャツ持って来て!」 なんて頼んでくれるのが嬉しかった。 一時外出もできるまでになった母の状態にまた安心し、 週末に私たちは母を病院と親戚、母友のおばさんに任せて1泊2日の家族旅行へ。 私の病気

          まじょのなみだ(12)