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関心領域を観て喪黒福造にドーンされる

 映画「関心領域」を観た。

藤子不二雄Ⓐ 笑ゥセールスマン

  笑ゥセールスマンの喪黒福造に「ドーン」されたような気分だ。もしくは名探偵コナンないしは金田一少年に「お前だ!」と指をさされたような。

 アウシュビッツ収容所の中の惨劇を見ずに、聞こえる悲鳴や銃声を聞かずに、立ち上ぼる煙や匂いといった殺戮の気配に気が付かないふりをして、無関心なのは誰だ?異様な光景に怒りがこみ上げる。この怒りは誰に向ければいい?収容所の所長のヘスか、それとも隣で豊かに暮らす家族か。妻か?子どもか?

 ーー違う、お前だ。

【あらすじ】
空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。時は 1945 年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らとの違いは?

https://filmarks.com/movies/109468

以下ネタバレを含ますのでご注意ください。

1.非人間化が完了した世界

 河原でピクニックをしたり、広大な庭で花や野菜を育て、優雅に暮らしている家族。退屈なホームビデオの背後では、ずっと気味の悪いBGMのような音が聞こえる。なんの音だろう、今のは悲鳴?いや、赤ちゃんの泣き声?画面の中では赤ちゃんが泣いている。ああ、この赤ちゃんの泣き声か。でも、画面の赤ちゃんが泣き止んでいるシーンでも、泣き声が止まらず聞こえる。パパパン。銃声?ああ、アウシュビッツの音か、とやっと気がつく。

 この音に、画面の中の人は無反応だ。顔色も変えず、幸福なホームビデオを日々更新している。あまりの無反応に、この音は映画のBGMで観客にしか聞こえない音なのかなと困惑する。でも飼い犬がやたら吠えたり子どもの様子などからして聞こえているのは明らかで、ああ聞こえてえいるんだと絶望する。この悲惨な音は、随所でずーーーーっと鳴り続ける。観客は不快感に思わず顔が歪むが、終盤もう耳が慣れてきてしまう。今その音が鳴っているんだか鳴っていないんだか、わからなくなる。麻痺するのだ。

 ホロコーストについて、音は悲痛に物語るが映像では一度も映されない。アウシュビッツ収容所の隣で、素知らぬ顔で暮らす家族。音も、匂いも、煙突から上がる煙にも、もう慣れきっていて麻痺している。

 子どもは夢遊病のように深夜に窓辺に佇む。焼き残ったユダヤ人の歯をまるでおはじきのように転がして遊ぶ。はたまた残虐さの萌芽を内在化し、兄弟を温室に閉じ込めて笑う。子どもたちには様々な「反応」が表れてしまっている。

 妻はこの家での優雅な暮らしに執着して夫の異動には頑なについて行かず、家に残る。ユダヤ人から収奪した服や口紅を、婦人たちは買い物感覚で品評し分け合う。ユダヤ人の服は彼女には小さくて破けてしまったが「ううん、私ダイエットする!」と引き取る。

 いかに効率的に”積み荷(ユダヤ人)”を焼却するか。焼却と冷却を同時に行える高性能の焼却炉をプレゼンし、まるで普通の会社の会議のように淡々と進められる会話の中身はあまりにもおぞましい。虐殺対象の非人間化は滞りなく完了している世界だ。ヘスはアウシュビッツに植わっている「ライラック」をむやみに傷つけたり乱暴に刈るなと司令を下す。景観を美しく飾るライラックはユダヤ人の命とは裏腹に大切にされている。

 花といえば、家族の住む家には菜園があり美しく咲く花がアップで映るシーンがある。この美しい花を育てている土には、ユダヤ人の遺灰が肥料として撒かれている。人間の命が、その尊厳が、花を育てる肥料にされる。花を愛でる気持ちと、人間を燃やして灰にして当たり前でしょという気持ちが普通に共存している。なにかがずっと、あまりにもおかしいのだ。

2.観客と近い立場にある義母

 家族の住む家に、義母が数日間泊まりに来るシーンがある。義母に家を案内しながらベスの妻は自分がいかに豊かで丁寧な暮らしをしているかを話す。義母は、ベス一家が幸せそうな暮らしをしていることに安堵し祝福する。その後、寝室で寝ていた義母はカーテンごしに見える赤い光に目を覚ます。”荷”が焼却炉で焼かれて、空が赤く染まっている。ある朝突然義母は置き手紙を残し逃げるようにして帰ってしまう。

 この置き手紙、読みたかった…。徹底して「描かないことで見せる」映画なのだ。隣の収容所から漏れ出てくる音や匂い、人の命が蹂躙されている気配。おそらく義母はそれらに耐えきれず逃げたのだろう。何も告げずに手紙だけ残したのは、この環境で平然と暮らす家族にも恐怖心を覚えたのではないかと思う。

 登場人物たちの中で、観客である私達に最も近い人物がこの義母だ。義母だって、虐殺に反対せず、虐殺を虐殺だと思っていない。ユダヤ人は人間じゃない。でもいざ悲鳴や銃声を聞くと恐ろしくて逃げ帰る。そして恐ろしい音や景色を遮断できる場所で、また平和ないつもの日常に戻るのだ。

 これはまさに私達のことではないか。今現在進行系で起きている虐殺についてだって、音や景色を遮断して無関心を決めこみ、平和な日常を送っている。義母や私達は、隣の家で優雅な生活を送るヘス一家を非難できるだろうか?「異常だ」「信じられない」「人の心はないのか」「無関心は恐ろしい」全部ブーメランだ。なんなら隣に住んでいるヘス一家とは違って、逃げて目を背けることで完璧に情報を遮断できてしまう分もっと恐ろしいのが我々の存在だ。子どもたちは様々な影響を受けていて、ヘスは嘔吐している。妻は麻痺しきってこの暮らしに執着する。私達はそういった「反応」さえも起こさずに済む場所で、ぬくぬくと暮らしている。だから、義母の残した置き手紙がきになるのだ。なんて書いてあったのか。その言葉は、私達がこの映画を見た感想と同じだろうか。

 無関心なのは誰か。異様な、恐ろしい、狂った存在なのは誰なのか。

ドーン。

3.アンネは日記ではなくインスタを更新する

 ホロコーストの時代とはわけが違うのだ。現代にはスマートフォンがあり、収容所の内部で起きている惨劇はSNSにアップロードされている。13歳の誕生日にアンネ・フランクは日記帳ではなくスマートフォンを貰う。そしてSNSを通じて、全世界に声を届ける。文字だけじゃない、映像も音も届く。現代のアンネの日記はすべてが終わった後に隠れ家から発見される歴史的書物ではない、すべての最中、リアルタイムでアンネは更新する。アンネの日記はあなたが毎日開くインスタグラムに、Xに届いている。日常の中で、指先ひとつで閲覧可能な渾身のSOS。

 それなのに。

 首のない子どものストーリーを左にスワイプすると、スタバで新作のフラペチーノを飲む友人の笑顔が画面に映る。同時進行。地続き。スワイプされた死体と、フラペチーノは今同時にこの世界に存在して、私はそのどちらも目撃している。そしておっとSNSを見すぎてしまったとスマホを閉じて、いつもの如く夕飯の買い出しに行く。この異様さは、ヘス一家の比ではない。私達は異常で狂っている。

 映画のタイトルである「The Zone of Interest(関心領域)」は、第2次世界大戦中、ナチス衛隊がアウシュビッツ強制収容所を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉だ。この”関心領域”内の家族の無関心を描くのが皮肉めいているとも思うが、本当の無関心は40平方キロメートルの外にあると思う。

4.加害者たちの三層構造

 加害者たちの三層構造が見えてくる。第一層は「アウシュビッツ収容所内」虐殺の実行者たちもしくは内部を見ることができる人たち(≒ヘス)。第二層は「関心領域」に住まう人たち。虐殺の気配を目で耳で鼻で否応なく感じとれてしまうが故に、必死に耳を塞ぎ無関心を決め込む(≒ヘス一家)。第三層は、「関心領域」の外に住まう人たち。物理的に40平方キロメートルを越えて離れることで、日常から虐殺の気配を抹消できる。私達はこの第三層に居る。繰り返すがこれは「加害者」の三層構造だ。

 一層に居るヘスは、嘔吐する。映画終盤、現代のアウシュビッツ収容所博物館の清掃風景とへスのいる空間がシームレスにつながるシーンがある。現代から眼指されながら暗闇へと階段を降りていくヘスは、何度も嘔吐する。自身や政府の行いの異常さに蓋をして気づかないふりをしているが、身体は自覚していて拒絶し嘔気を催している。(医師にお腹を診てもらっているシーンもあったように、ヘス本人はなぜ自分が嘔気に見舞われているのか気づいていない)(もしくは気づいている自分にすら気づいていないふりをしている)

 二層に居る一家は、耳を塞ぐのに必死だ。平気な顔をして生活しようと必死だ。彼らのしていることは「ノイズキャンセリング」だ。最近のイヤホンの技術は素晴らしく、ノイズキャンセリングをオンにした途端、あらゆる雑音は消える。サイドを長押しして、ピョロン♪と音が鳴ったあとに訪れる無音状態は「アクティブノイズキャンセリング」の成せる技だ。デジタル信号処理によって消したい音を音で打ち消す技術。ノイズを取り込み、ノイズの波形と逆位相の波形を電気回路で作り出し、ノイズの波形にぶつけて相殺することで音が聞こえなくなる。真逆の波形を必死にぶつけて、ぶつけて、消しているのがこの層だ。この場合の真逆の波形とは、プロパガンダであったり、虐殺対象の非人間化だろう。

 三層である私達は、ノイズキャンセリングをするまでもなくそもそもノイズの届かない遠方に居る。無関心の代償を、反応を、避けることができてしまう。嘔気を催す前に、画面をスワイプすればいい。親指一つでできる簡単な逃避だ。そもそもガザの惨状の投稿はメタ社が「政治的な投稿」として表示させないようにデフォルト仕様を変更したし、万が一アクセスできても「センシティブな投稿です」と表示をぼかしてうっかり閲覧できないようになっている。映画館を出たその足でマックで昼食をとりながら関心領域の感想戦でもして、「妻が一番の悪役だね」「無関心いかに怖いか考えさせられたね」と共感し合えばいい。 忙しさにかまけて投票には行かずに、デモだなんだと言っている友人のことはなんだか思想が強くて怖いなと嫌厭すればいい。スタバであなたが支払った500円は武器に変わり今まさに子どもを殺したが、そんなことは知らない。ブレべミルクは胃がもたれる、と投稿していいねを貰う。それが、無関心だ。わたしだ。お前だ。この映画は怒りに満ちている。「考えさせられますね」で片付けずに、「今考えろ」と。

5.SNSがすべての家をアウシュビッツの隣家にする

 この第二層と第三層の境目が、現代では無くなってきているとも言える。SNSがあり、当事者の叫びは、隣家の距離感以上の近さで聞こえてくるようになった。インターネットによって、どこの家もアウシュビッツの隣家になった。三層にいると思っていたのに、いつのまにかが二層の「関心領域」にいる。わたしたちもまた、アクティブノイズキャンセリングを行い、必死に逆波形の音を放っているのだ。私たちの場合の逆波形は、アカデミー賞授賞式だったりスーパーボウルの熱狂だったりする。私たちの目は、容易く逸らされる。

 映画冒頭、観客が放り込まれたあの暗闇は、ガス室だ。映画中盤の花のシーンから、赤い光の中で音が鳴り続けたシーンは焼却炉だ。エンドロールの暗闇の中のあの断末魔のようなあの音楽。この映画は何度も、私達観客を四角い箱の中に閉じ込める。「気づけ、気づけ、気づけ」と。「お前だ」と。逃れられない箱の中で、私達は否応なく気付かされる。映画館を出たあと、観客である私達もまた暗闇へとつづく階段を降りていく。

 まだ、気付かないフリをするのか?できるのか?

 一回吐いとく?ドーンされとく?


6.パレスチナ連帯行動


 パレスチナ連帯行動まとめを作ってくださっている方々がいます。

 今手にしているスマートフォンで、ガザから目をそむけるためにストーリーをスワイプしたその指。その指ひとつで、署名ができる。外務省に意見を送ることができる。地元議員にメールを送ることもできる。デモの情報を得て、出かけることだってできる。情報の拡散のためにリツイートやシェアもできる。ガザにesimを送ることだってできる。スタバやマックなどイスラエル支持企業の不買運動に参加することもできる。

 民族浄化に反対の意思を、然るべきところに表明していないのならそれは逃げ帰った義母と全く同じである。虐殺に反対していないのだ。こんなことには反対だ、と心の中で思っているのは感情であって反対ではない。反対しよう。せめて。

 この映画を観ても、何も行動には移さない人がいるならば、もう世界はどうしようもないところまできている。

 現代においては全世界がアウシュビッツの隣家であり、関心領域内である。




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