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真夜中のハルキスト

 謎のロシア美人諜報員Tが寝息を立てはじめたのを僕は聞き逃さなかった。今、彼女は大の字でクイーンサイズのベッドを占有している。きちんと深い眠りについているか、彼女の可愛らしい丸く尖った鼻先をつまんでみた。反応がない。深い眠りに落ちている。けれども、油断はできない。だから、自由という不安を抱えたまま、あたりを注意深く観察し、用心深くもう一度彼女の鼻先をつまんでみた。起きない。僕はベッドサイドに置かれた一冊の短編集を片手に寝室をそっと抜け出した。

 黄色いツルツルした表紙にサラサラとしたクッキングシートみたいなカバーつきの素敵な本は、前に諜報員Tが選んだものだ。中身はほとんど昔読んだ短編ばかりだったけれども、彼女がどうしてもこの本で読み聞かせしてほしいと言って買わされた。彼女がこれを選んだ理由は、僕の大方の予想では、彼女の作戦コードネームHの遂行だろう。

 冷蔵庫の野菜室にアボガドとニンジンがあるのは運が良かった。醤油、ワサビ、マヨネーズとほんの少しオリーブオイルにニンニクを加えて手早くドレッシングを作り、簡単にサラダをこしらえた。シンクの反対側のパントリーに入り、いくつかのウイスキーを確認し、控えめに奥の方に佇むメーカーズマークがあるのを僕は見逃さなかった。恐らく、ウイスキー好きな親父が予備のために隠していたものに違いない。その親父も既に床の上で寝そべって死んだように眠りこけている。
 僕は多めの氷をなんて事のない平凡なビールグラスに入れてメーカーズマークのロウを切り、グラスに注いだ。氷たちが僅かにささやき合いながら身を悶えて琥珀色の液体に溶けていく。濃厚で芳醇な滑らかで少しフルーティーな薫りが僕の喉を潤していった。甘すぎないバニラのような薫りと滑らかな口当たりのバーボンウイスキー。こういうのはハイボールじゃなくて、僕はロックで飲む方が好きだ。

「読み聞かせしてくれる本は一人で読まないでね」諜報員からそう言われていたのを僕は覚えている。けれどもきっと読んだ中身はウイスキーに流されて消える筈だ。
僕はそう自分に言い聞かせて、ページをめくった。

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