パレスチナ文学 『とるに足りない細部』アダニーヤ・シブリー
過酷な気温と土埃の中、燃料や何かの腐ったような臭い、汗、犬の吠える声、誰かの叫び声やすすり泣く声、それらすべては誰かにとっては目の前の疑う余地のない事実であり現実であり、そして他の誰かにとっては蜃気楼のようでしかない──1948年のナクバから2024年の現在まで、まったく、パレスチナで起きていることは変わらない。
過去24時間(202410/4)で、イスラエル軍によるガザ攻撃でパレスチナ人99人が死亡、169人以上が負傷した。保健省によると、2023年10月7日以降、死者数は少なくとも4万1788人、負傷者数は9万6794人に上っている。
それに対して、イスラエルはユダヤ新年を祝い、「新しい年が、テロの恐怖ではなく、希望と喜び、そして正義で満たされますように。」と願うという、この非対称性は、いかにも、イスラエル側のイメージ戦略に沿うものだろう。
正義と抵抗は視点を変えれば逆転し、あるいは、正義の反対は、もうひとつの別の正義だ。そして、パレスチナは常にテロの文脈でしか語られない。もっと言えば、歴史が強者によって都合の良く扱われる。自国民にも他国に対してもイメージ操作をし、民族浄化を誰にも咎められる事なくエスカレーションさせていくのが、建国当初から現在までのイスラエルという国家のやり方だろう。
現在、彼らはレバノンなど周縁国にまで虐殺を拡げエスカレーションを〈誰も〉止めない。
そのイメージ戦略が他者を真実から蜃気楼の如く遠ざける。
──先週、『とるに足りない細部』アダニーヤ・シブリー著を手にとり、ページをくくっていた。本書はパレスチナ出身の作家による、実際に1949年に起きた事件、イスラエル兵士たちによって監禁強姦後殺害されたベドウィン人の少女の事件、2003年にハアレツ紙の記事を元にしている物語。
モノローグのような第一部は、三人称で1949年の事件の加害者、イスラエル兵士の視点から書かれている。
第二部は、一人称で2003年に偶然、その事件についての記事を目に留めたパレスチナ人女性の視点から書かれている。
爆撃が日常的になっていると、近くでの爆撃は、土埃が家の中に入ってくる迷惑なもの、として扱われ、気にも留めないはずが、事件の被害者である少女の死亡日と、第二部の主人公の誕生日が同じだった、という、〈とるに足りない細部〉によって、主人公は危険を犯して事件現場へと旅をする。
〈とるに足りない細部〉のもたらす〈偶然〉にじっと目を向けると、ひとはどうしても〈因果関係〉を見出そうとし、〈一致〉に納得し、それを〈必然〉あるいは、〈運命〉と名付ける──人間というのは、状況によらず、いつもそうだろう。
第二部のパレスチナ人女性は真相を知るために歴史資料を集めることにし、イスラエル側の資料館などへ行く。
因果関係を見出そうとすると、真実に、事実の深淵に近寄ることもある。
偶発的事象の中に潜む因果関係に気づく重要性については、イタリア人作家、アントニオ・タブッキが『遠い水平線』須賀敦子訳(白水社)で見事に描いている。
タブッキは、スピノザのように透徹で水平な目線を大事にすることで、事象間の因果関係を見抜き、そこに横たわるちいさな、あるいは、断片化された歴史が浮かび上がることを伝えている。
そのようにすること、つまり、断片化された歴史を繋ぎ合わせることは、個人の記憶だけでなく、その個人を取り巻く集団の記憶を掘り起こすことにも繋がる。
けれど、支配のための弾圧、抑圧、紛争や戦争では、双方の権力者、強者や勝者がそれら事実を捻じ曲げ隠蔽し、あとから来た者たちの触れることを不可能にする。
遂には、事件現場に辿り着き、現地のアラブの老女と〈偶然〉出会う。
被害者少女が生きていれば、老女と同じくらいの歳になっていたはずだ。
しかし、彼女は結局は聴く勇気が出なかった。
聞き手だけではない。話し手にも勇気がいることだ。
歴史を語り継ぎ、それを真摯に、謙虚に聴く──第二次世界大戦の日本のことを語ってくれた曽祖父をぼんやりと思い出した。
いまと過去を断片化することなく、しっかりと繋ぎ留めなければ、過ちは繰り返され、常に弱者は強者に搾取と廃棄され続ける。
それを食い止めるために、学校だけでなく、家族で、地域で世代を超えて、歴史を語り継ぐことがいかに重要か。
白い車を運転する女にとって、殺された少女とは、何だったのだろう、シェイクスピアの『ハムレット』ではないが、〈ヘカベとは何だったのか〉に、僕は行き着く。
作品で引用されていた、パレスチナ詩人、ダルウィーシュの結晶が心を揺さぶる。
ナクバから現在に至るまで、変わらず断片化された個と集団の記録と記憶──蜃気楼の出来上がる構造を幻想的かつ非常に緊張感走る文章で漠然と想起させられる絶望感と不条理が書かれており、息をつめるかのようにして読んだ。