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彷徨う表現者のタフな思想
※以下は、あくまでも俺の考えであり他のものづくりをしている人々にこれを押し付けているわけではない。
「批評家とは、他人の思想について思考する人間である。」
『自由への道3』 サルトル
ポスト構造主義者らが持ち上げられ、今は、見向きもされない実存主義の哲学/文学者たち。彼らは西洋主体であり、決意主義であり唯我論的と批判され、サルトルの死とともに、葬り去られたも同然になっている。時代遅れであったとしても、俺はサルトルを敬愛している。
思想の押し付けもないエンタメや恋愛や衝撃的な言葉のみ羅列されたものなど、そうしたものを扱った小説は娯楽にするには丁度いいし、否定しない。純粋に楽しめる。しかし、数週間もすれば、内容を忘れる消費活動とも言えるものも少なくない。
逆に言えば、表現者の思想が伝わるものはジャンルによらず、目には見えない何かを残し消耗されない。
昔、こんな文学者もかつていた。
文学は思想であり文学者は文学者としての社会的責任を持つ。
高橋和巳
文学であれ、何であれ、表現することは思想の表れであり、責任を持たねばならない。
※こうした考えは、高橋和巳だけではない。
そして、そうしたものこそ、消費されっぱなしではなく、ふとした瞬間に遠い記憶から呼び覚まされるものだったりする。
表現者、ものづくりをするものたちはそれぞれに思想を潜在的に意識下に持っているはずだ。表現するものが芸術と呼ばれるものか、大衆と呼ばれるものか、○○賞受賞なのか、だとかは関係ない。
そして、創作活動において、自身の思想を簡単に他者や風潮、トレンドといったものに迎合したり、覚悟なく他の創作物を批判すべきではない。
そうした即自的な行動、つまり、自己欺瞞の中で行動するということは、自分の行為に対する責任を全うしないということを意味する。責任を外的な影響になすりつけてしまうということだ。
表現者の作品はその表現者の思想であり、誰かの批評や批判に依存してはならない。
自分なりの思想哲学を表現することは自由選択であり、選択し続けることで、各々の在り方やアイデンティティは緩やかに形成されていく。そしてそこには責任を持たねばならない。各々の在り方やアイデンティティこそが思想である。何かによって簡単に崩れてはいけないから、タフさも必要だ。
表現すること=思想を明らかにすること。
何にも依存しないのだ。
ジャン-ポール 卍丸
これは俺の創作、ものづくりの根底にある思想だ。自己欺瞞に陥らず、責任を持って、ものをつくる、書く、書き続けるとは、自分自身を含め、誰かを愛し、向き合い、生きること。
依存、迎合することなく責任を持って表現することは、すなわち、自由でタフな思想であり哲学だ。
※あくまでも俺の考えであり他のものづくりをしている人々にこれを押し付けているわけではない。
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