異邦人 不条理に反抗する無垢
著者 アルベール カミュ
訳 窪田 啓作
出版 新潮文庫
カミュの代表作として、異邦人のほか、転落や近年とくにコロナの影響もあるせいかペストが取り上げられる。
しかし、カミュの不条理を感覚として表現されたこの「異邦人」こそが彼の真骨頂であると僕は思う。
略歴
サルトルの解説やシーシュポスに触れることから、カミュの略歴をあらすじの前に紹介しておく。
1913年11月7日 フランス領 アルジェリア モンドヴィにて生まれる
1960年1月4日 46歳 フランス ブルゴーニュヨンヌ県 ヴィルブルヴァン自動車事故にて死去
今回取り上げる異邦人は1942年に執筆出版されたものである。
同年シーシュポスの神話も執筆出版されている。
※以下ネタバレを含みます
あらすじ
飄々とした主人公ムルソーが養老院に預けていた実母の死の知らせを受け取るところから物語は始まる。
養老院での通夜~葬式において、ムルソーは他者に自身の感情を表に出すことがない。
葬儀が終わった翌日にはあっけらかんと恋人マリーと海へ行く。
隣人のレエモンとレエモンの女とのトラブルや、レエモンとアラブ人たちとのトラブルに巻き込まれ、アラブ人を殺害。
裁判において、ムルソーは一切反駁しない。
有罪となり死刑判決を受ける。
異邦人とは?
ムルソーの裁判の過程を読むと、すべてを理解したいと望む人間(裁判官、弁護士、司祭)と何一つ説明しないムルソー=無垢な世界との対峙であることが読み取れる。そしてこの対峙こそが不条理である。
不条理から逃げるのではなく、常にそれを直視=反抗するべきとカミュは作品中、読み手に感覚的に伝えてくる。
不条理に反抗する生き方を実践する人間を異邦人ともいえよう。
カミュの不条理
カミュの異邦人とシーシュポスの神話は切っても切り離せない関係を持っている。異邦人とともにシーシュポスの神話を是非とも読んでみてほしい。
そして、この初期の2作品がカミュの不条理の真骨頂のように思える。
※異邦人の解説において、サルトルの右に出る者はいないであろう。
サルトルは異邦人とシーシュポスの神話を対比し、シチュアシオンにて解説している。そちらも是非読んでみてほしい。
とサルトルは位置づけ、シーシュポスの神話こそ異邦人の注釈であると解説している。
シーシュポスの神話において、前提として、人生には意味がないとしている。「質の倫理」はもはや通用せず、「量の倫理」を生きるべきとし、そうした生き方をする人間を不条理な人間としている。
・ドンジョアン/役者/征服者/創造者
僕が異邦人でとりわけシーシュポスを感じるのは以下の文章だ。
これを観念的にシーシュポスでは書かれているように思える例が以下である。
全体を読み通すと、ムルソーが、いかに自己欺瞞に陥ることなく不条理に抗い無垢に生きたか、ありありと伝わる。
裁判において、殺害理由を弁護士の陳述前に「それは太陽のせいだ」(p131)と言うムルソー。
ムルソーが何故自身のアラビア人殺害動機を「太陽」のせいにしたのか。
ムルソー(=自己欺瞞に陥らない無垢な生き方・あり方をする人間、ひいてはカミュらが生きていた時代の若者たちの代表と捉える)は、太陽(=社会風潮や世界での不条理)のせいだと言わざるを得なかったのだろう。
カトリックとの対峙
136ページから155ページまで後半ムルソーは怒涛の司祭との対峙をする。
死刑執行前になっても、自己欺瞞に陥ることなく、伝統、信仰、神に抗い、カミュはムルソーに「神」を拒否させている。
ムルソーの悟り
こうして、特権階級的なものを拒否し宗教的価値に依存することなく、ありのままの人間の姿から「生」というものの意味を探し求めたムルソーは悟った。
孤独でないことを望むムルソーの最後は星々に満ちた穏やかな夜であった。
シーシュポスの神話から、あるがままの姿を見つけたときの不安を不条理とするカミュの言葉でこの記事を終わる。
注1:注2を指してサルトルは言っている
注2:シーシュポスの神話 著者 カミュ p31参照
注3:この作家はサルトルを指し、嘔吐感はサルトル著書の「嘔吐」でロカンタンが感じた嘔吐を指しているのだろう。
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