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異邦人 不条理に反抗する無垢

著者 アルベール カミュ
訳 窪田 啓作
出版 新潮文庫

カミュの代表作として、異邦人のほか、転落や近年とくにコロナの影響もあるせいかペストが取り上げられる。
しかし、カミュの不条理を感覚として表現されたこの「異邦人」こそが彼の真骨頂であると僕は思う。

略歴

サルトルの解説やシーシュポスに触れることから、カミュの略歴をあらすじの前に紹介しておく。
1913年11月7日 フランス領 アルジェリア モンドヴィにて生まれる
1960年1月4日 46歳 フランス ブルゴーニュヨンヌ県 ヴィルブルヴァン自動車事故にて死去

活動期間 1935年ー1960年
扱ったテーマ:倫理、幸福、正義、愛、不条理、反抗

1942年 異邦人 シーシュポスの神話
1943年 カイエ・デュ・シュッド誌にサルトルの「『異邦人』解説」とグルニエの短評が掲載される。いずれも絶賛。
1944年 カリギュラ
1947年 ペスト
1951年 反抗的人間
1952年 サルトル主宰タン・モデルヌでフランシス・ジャンソンが反抗的人間を批判。カミュ=サルトル論争に発展。サルトルとの友情に終止が打たれる。
1956年 転落・追放と王国
1957年 ノーベル文学賞受賞(史上2番目の若さ)
授与理由:「この時代における人類の道義心に関する問題点を明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」
1960年 1月4日ガリマールの運転する車の助手席に同乗、ヴィルブルヴァン近くのプラタナスに激突し、即死。1月6日 ルールマランに埋葬される。

今回取り上げる異邦人は1942年に執筆出版されたものである。
同年シーシュポスの神話も執筆出版されている。

※以下ネタバレを含みます


あらすじ

飄々とした主人公ムルソーが養老院に預けていた実母の死の知らせを受け取るところから物語は始まる。
養老院での通夜~葬式において、ムルソーは他者に自身の感情を表に出すことがない。
葬儀が終わった翌日にはあっけらかんと恋人マリーと海へ行く。
隣人のレエモンとレエモンの女とのトラブルや、レエモンとアラブ人たちとのトラブルに巻き込まれ、アラブ人を殺害。
裁判において、ムルソーは一切反駁しない。
有罪となり死刑判決を受ける。

異邦人とは?

ムルソーの裁判の過程を読むと、すべてを理解したいと望む人間(裁判官、弁護士、司祭)と何一つ説明しないムルソー=無垢な世界との対峙であることが読み取れる。そしてこの対峙こそが不条理である。
不条理から逃げるのではなく、常にそれを直視=反抗するべきとカミュは作品中、読み手に感覚的に伝えてくる。
不条理に反抗する生き方を実践する人間を異邦人ともいえよう。

カミュの不条理

カミュの異邦人とシーシュポスの神話は切っても切り離せない関係を持っている。異邦人とともにシーシュポスの神話を是非とも読んでみてほしい。
そして、この初期の2作品がカミュの不条理の真骨頂のように思える。
※異邦人の解説において、サルトルの右に出る者はいないであろう。
サルトルは異邦人とシーシュポスの神話を対比し、シチュアシオンにて解説している。そちらも是非読んでみてほしい。

「異邦人」…注釈のない不条理の「風土」=感覚
「シーシュポスの神話」…不条理の「風景」=観念

とサルトルは位置づけ、シーシュポスの神話こそ異邦人の注釈であると解説している。

シーシュポスの神話において、前提として、人生には意味がないとしている。「質の倫理」はもはや通用せず、「量の倫理」を生きるべきとし、そうした生き方をする人間を不条理な人間としている。
・ドンジョアン/役者/征服者/創造者

サルトルはシチュアシオンで
「作中人物と読者の間に物については透明だが、意味については不透明なガラスの仕切り板を差し込んでいる」注)1
と指摘し、この「ガラス板」=ムルソーの「意識」であるとしている。

僕が異邦人でとりわけシーシュポスを感じるのは以下の文章だ。

私の愛する一つの街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとある親しい物音を、まるで自分の疲労の底からわきだしてくるように、一つ一つ味わった。すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び。辻公園のなかの最後の鳥たち。サンドイッチ売りの叫び声。町の高見の曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜がおりる前の、あの空のざわめき。ーこうしてすべてが、私のために、盲人の道案内のようなものを、つくりなしていた。
中略
けれども、もう何かが変わっていたのだ。明日への期待とともに、私が再び見出したのは自分の独房だったから。あたかも、夏空のなかに引かれた親しい道が、無垢のまどろみへも通じ、また獄舎へも通じうる、とでもいうように。
「異邦人」カミュ 新潮文庫 p124から引用

これを観念的にシーシュポスでは書かれているように思える例が以下である。

とすれば、精神が生きてゆくのに必要な眠りを精神から奪ってしまうこの計り知れぬ感覚とは、いったい、どのようなものなのか。たとえ理由づけがまちがっていようと、とにかく説明できる世界は、親しみやすい世界だ。だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分を異邦人と感じる。この追放は、失った祖国の思い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき網はいっさいたたれている。人間とそのせいとの、俳優とその舞台とのこの断絶を感じ取る、これがまさに、不条理性の感覚である。
「シーシュポスの神話」カミュ 不条理な論証 新潮文庫 p16

全体を読み通すと、ムルソーが、いかに自己欺瞞に陥ることなく不条理に抗い無垢に生きたか、ありありと伝わる。

裁判において、殺害理由を弁護士の陳述前に「それは太陽のせいだ」(p131)と言うムルソー。

太陽=欺瞞に満ちた、不条理ともいえる社会、世界
ムルソー=不条理に反抗する無垢な人間そのもの

ムルソーが何故自身のアラビア人殺害動機を「太陽」のせいにしたのか。
ムルソー(=自己欺瞞に陥らない無垢な生き方・あり方をする人間、ひいてはカミュらが生きていた時代の若者たちの代表と捉える)は、太陽(=社会風潮や世界での不条理)のせいだと言わざるを得なかったのだろう。

カトリックとの対峙

136ページから155ページまで後半ムルソーは怒涛の司祭との対峙をする。
死刑執行前になっても、自己欺瞞に陥ることなく、伝統、信仰、神に抗い、カミュはムルソーに「神」を拒否させている。

私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛ーそんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命ーそんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。
中略
誰でもが特権を持っているのだ。
中略
こうしたすべてを叫びながら、私は息がつまってしまった。
「異邦人」カミュ 新潮文庫 p155

ムルソーの悟り

こうして、特権階級的なものを拒否し宗教的価値に依存することなく、ありのままの人間の姿から「生」というものの意味を探し求めたムルソーは悟った。

孤独でないことを望むムルソーの最後は星々に満ちた穏やかな夜であった。

私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った
「異邦人」カミュ p156

シーシュポスの神話から、あるがままの姿を見つけたときの不安を不条理とするカミュの言葉でこの記事を終わる。

人間たちの意味を失ったパントマイムが、かれらを取り巻くいっさいを愚かしいものに化してしまう。ガラスのはまった仕切りの向こうで(注2、ひとりの男が電話をかけている。声は聞こえない、身振りは見えるが、それには意味を伝えてくる力はすこしもない。すると、その男はなんのためにいきているのだろうかという疑問が湧いてくる。
中略
ぼくらのあるがままの姿を見せつけられたときのこの測りしれぬ転落、現代のある作家の言葉を借りていえば、この「嘔吐感」、これもまた不条理なものである。
「シーシュポスの神話」カミュ 不条理な論証 p31
(注3

注1:注2を指してサルトルは言っている
注2:シーシュポスの神話 著者 カミュ p31参照
注3:この作家はサルトルを指し、嘔吐感はサルトル著書の「嘔吐」でロカンタンが感じた嘔吐を指しているのだろう。


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