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僕にとってのエルノー文学の魅力

はじめに

7作品を読んでみて、今感じているエルノー文学の魅力

①欲望の蕩尽性
②個の全体的な人間を描くことを貫いた
③ アンガジェ作家である

エルノー文学は、僕にとって、サルトルの実存哲学的な側面とバタイユの神秘的な側面を兼ね備えているかもしれない。

読む順序は気をつけるべき作家とも言える。

映画化されたことから、『シンプルな情熱』から読むと、作家の核心を捉えきれずそこでやめてしまう可能性が高い。僕自身がその例である。

シンプルな情熱について

映画『シンプルな情熱』を映画館で鑑賞した。
その際、僕は僕の倫理観に合わないという点しか目に入らなかった。
ノーベル文学賞を取ったことを契機に僕は『シンプルな情熱』を読み、更になぜノーベル文学賞を取ったのか不可解に思えた。

これはタイトル通り『情熱』についての一例の提示であり、『愛』を表立って提示しているわけではない。

個人的に「情熱」は「私は太陽である」の「である」が愛の伝達手段だとして、その手段の動力である。詳しく知りたい方は『太陽肛門』G.バタイユを読んでほしい。

図1 僕にとってのバタイユのエロティシズムと太陽肛門のモデル

読む順序

僕は、著作時代順に読む方がベターだと感じた。

凍りついた女
場所
ある女
シンプルな情熱
嫉妬
事件

そして、はずせないのがエッセイ『The Years』
『歳月』と邦訳されるのかもしれないが、来年以降邦訳予定らしい。

エルノー文学から得るもの

人間は、自己欺瞞しながら──もがき、葛藤しながらも同時に社会に対して自己を開き続けねばならない。その態度こそが人間たる所以でもあるということ。

人間は他者を通してしか自己を知り得ず、他者を通して知った自己を省みて次の選択を決定していく。
この一連のサイクル、しかも決して同じではない写像ではないサイクル、が反復されて社会に投げ出されたひとりは人生の軌跡を描いていく。

『実存主義とは何か』J.P.サルトル
の訳書序文に載せられている海老坂先生の文章が端的である。

作家がもしも「自己の全体」を表現するならば、それは作家の生きている時代と社会、そしてこの作家を作り上げている歴史を表現することになるだろう。作家はそれをどこまで自覚的に行うか
『1945年の実存主義』海老坂武 人文書院(『実存主義とは何か』J.P.サルトル収録)

その軌跡は死んでからしか眺めることは出来ないかもしれない。

話す、書く行為によって、「今」眺められるか?

というと、そうではない。
当たり前だが、軌跡の現在地点と客観的に眺める地点とで物理的時差がある。

軌跡全てを見渡すことは、現象界にいる限り不可能かもしれない。
眺めようとすると、そこに何らかの因果関係を見出したくなるからである。
これは僕の以下の考えからくる。

あらゆる事象は偶発的事象であり、共同体とは選び取ったひとまとまりの偶発的事象に過ぎないかもしれない。

しかしながら、そこを感じることを可能にするのが、エロティシズムでもあるかもしれない。

わたしはそのボーイを『存在と無』に出てくるカフェのボーイと重ねあわせていた──ほんとうはカフェのボーイではないのだけれど、そのふりをしているとかといったふうに。想像を通して見る、あるいは記憶を通してふたたび見る、それが書く行為の宿命である。しかし、“ふたたび見る”というのは、わたしが別の人生──過去の失われた人生──と一体化したという感覚を持った瞬間を書き留めるのには役立つ。”まるであの時に戻ったかのよう”という言い回しが、自然と、正確に表現している感覚を
『事件』アニー・エルノーハヤカワepi文庫p141-142

ここで言及している『存在と無』の想起の場面は、『存在と無』J.P.サルトルの第一部第二章における、自己欺瞞についてサルトルが述べるために出したカフェのボーイ例である。

自己欺瞞、つまり、人間たる所以、意識の裂け目、叫び、言語化し難い沈黙、つまり、世界の深淵に対峙することを宣言していると僕は捉えた。

この姿勢をエルノーは他作品でも貫いている。

私の企ては文学的なものだ。母について、言葉によってしか摑むことのできないひとつの真実を求めようというのだから。(つまり、私が求めているのは、古い写真からも、自分の記憶からも、親戚の者たちの証言からも得られないようなひとつの真実なのだから。)それにもかかわらず、私はある意味で、文学以下のレベルにとどまっていたいと思う。
『ある女』アニー・エルノー 早川書房
私は終えた。嫉妬に囚われた想像界、ここではそれは、嫉妬の虜であり、かつ観客であった私自身の想像界だったわけだが、そこに現れるさまざまな形象を抽出することを。(中略)自分が他の場所でも、つまり別の女の頭と体の中でも生きているなどとは思いもよらずにいたことだろう。
『嫉妬』アニー・エルノーハヤカワepi文庫p82-81

想像の中で他有化された人物について最後語りながら、「嫉妬」の真実を探り出すエルノー。

アンガジェ作家 アニー・エルノー

また、別の角度から見ると、さまざまな作品で、特徴的でもあるが、自分の欲望のひとつに、他者のイメージを自分の中に取り込もうとする欲望が描かれている点が見られる。

これは他者を通してしか人間は自己を見ることができないというしがらみがあることを暗喩してもいるし、愛を渇望していることの暗喩とも拡大解釈もできるかもしれない。

さらに、彼女は蕩尽した欲望から生じた葛藤、自己欺瞞と闘争し続ける上で常にそこに潜む彼女を取り巻く社会のあり様と問題を提示している。

サルトルを敬愛する僕がエルノーをアンガジェ作家としたいのは、サルトルの以下の文章と噛み合うからでもある。

ある物事を語ることをえらんだから、作家なのではなく、その物事をある仕方で語ることをえらんだから、作家なのである。そして文体は、もちろん、散文の価値に違いない。しかし文体は気付かれずに過ぎるようなものでなければならない。
『文学とは何か』J.P.サルトル 人文書院 p31

おわりに

私の顔というのは、私には見えない──少なくとも最初は見えない。私はそいつを、自分では気づかない打ち明け話のように前の方に突っ立てており、逆に他人の顔の方が私に私の顔を教えてくれるのである。
『顔』(『実存主義とは何か』収録エッセイ)J.P.サルトル 人文書院

図1で示したとおり、書く行為というは良い意味でも悪い意味でも労働と暴力でもある。

また、読む行為というのは僕にとってはサルトルのエッセイ『顔』の一文に近い。
これは書く行為にも言えることかもしれない。

バタイユ的神聖、エロティシズムの世界へ世界の深淵を暴力──書くという行為=労働を通して、踏み出そうとする姿勢が勇ましい。

僕はエルノー文学の魅力をそのように感じている。

By retrieving the memory of collective memory in an individual memory, she will capture the lived dimension of History.

集団の記憶を個人の記憶の中に取り込むことで、歴史の生きた次元を捉えることができる
『The Years』Annie Ernaux

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