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幻影の書

著者 ポールオースター
訳者 柴田元幸
出版 新潮文庫

ポール・オースターは本書で読むのが7作品目になる。

ダブル・オア・ナッシング。

ひとは過去の中を生きれない。
ひとは現実の苦境から一時の安堵を求めて幻想を夢見るけれどそこで生きることはできない。

でも、絶望のとき、どうだろう。
現実と幻想を生きているように思う時もあるかもしれない。

幻影の中に止まり続けることは、心地よいかもしれないけれど、絶望はどこまで行っても絶望しかなく、希望を見出すのは現実の中で次の一歩を誰かと歩こうとした瞬間にある。
あるいは、不条理の中、ベンヤミンの言うように、希望なきひとたちのために僕たちには希望が与えられているのかもしれない。

僕はそんなふうに感じる。

あらすじ

主人公は大学教授のジンマー。
ジンマーの妻と2人の息子は飛行機事故で亡くなった。
主人公はある昔の喜劇監督兼俳優の映画評論を書く事で、「現実を生きていること」から遠ざかろうとした。
ヘクターの映画を観るジンマーの描写が淡々と書かれており、まるでこちらも映画を見せられているかのような錯覚にもなる。
ヘクターの妻から評論を読んだ旨カードが届き、すったもんだのすえに、アルマという30すぎの女がジンマーをヘクターの元へと連れていく為、ジンマーのもとを訪れる。

テーマ

僕が感じたテーマは

偶然

喪失
絶望
他者
再起
希望

これらはひとの一生で何度か立ち会い、一巡しながら次の世代、またその次の世代へと輪廻転生のように、あるいは、永劫回帰的に繰り返していく。

考察みたいな感想


若干ネタバレあるため注意



ジンマーがヘクターの評伝やシャトーブリアンの翻訳、『死の回想』をする間、アルマは6年半ヘクターの伝記を書いていた。

ヘクターの残した作中映画のひとつ『ミスター・ノーバディ』はサルトル の『存在と無 』を受容体にしているような感じでもあり、中々面白い。

ミスター・ノーバディとサルトル


ミスターノーバディは薬を飲んで透明人間になった男をヘクターが演じる。
薬の効果が切れて、鏡を見て、自分を確認する。妻を通して確認もする。

透明人間から元に戻ったかどうか、
「証明は鏡にあり」

サルトル 嘔吐 のロカンタンの肖像画のシーンを彷彿させる。

「そんな彼が自分を見るのと並行して我々は彼を見ている。」p72

対自存在、対他存在を描きたかったのだろう。

そのあと、ようやく、男は再創造された人間として吐き出されたかのように、である者からでない者へ、と向かうようにすらこの映画の描写を僕には読めた。

「二重か無か?ダブルオアナッシング」p72
とまで言うから、
存在と無をかなり意識したのかな、と思った。

オースターの数字遊び

p9,p11のオースターの数字遊びがあったり、オースターは数字が出てくると疑って読む方がいいのかもしれないとすら思えた。
p11は0-9までの数字が出てくる。

1から10までの連続的な数字が含まれたページ
新潮文庫

あとオースターは3という数字が好きなのか?
p318はなぜか数字の7だけ抜けている。
その意図があるかわからないがp9が示唆しているのかなと勝手に思っている。
6,7回ヘクターの妻フリーダからのカードを読むジンマー。
p9は「これはただの悪戯だと片付けることにした」ページで1-9のうち4と8が抜けている。
数字を悪戯で並べてる。でも6,7は2度出てくる。
(だからどうした)

数遊びという悪戯を予感させるためか、それとも、フリーダのメッセージが悪戯ではなく、フリーダのものか、あるいは、無理やり書かされた歯抜け状態のようなものなのか……。想像は尽きない。
4と8が抜けている。
新潮文庫

フリーダのことを暗喩しているのかなと深読みしすぎかもしれないが、そんなことを考えた。

ここでいう、フリーダのこと、とは、メッセージの信憑性だけではなく、フリーダにとってのヘクターという存在そのもの、あるいは、ヘクターを通してのフリーダの存在をフリーダ自身、どう考えているか?ということ。

マーティン・フロストの内なる生を観る前にまた怒涛の数字を遊ぶ。
新潮文庫

マーティン・フロストの内なる生

最終場面で、出てくる作中映画、『マーティン・フロストの内なる生』とジンマーやアルマが重なり、良かった。

誰かについての物語、伝記、評伝を書いている間、その書物の中が世界のすべてになる。
物語を創作していると時々僕もそんな気がする。
それは現実ではない、幻影の中のことであり、そこで生きることはできない。

けれどそれがすべてだった瞬間があまりに強いジンマーとアルマ。

幻影のような断片化された、もしかしたら、その瞬間は誰かにとってリアリティかもしれないような、そんな断片的ヘクターの12本の映画と姿を消滅させたあとの写字室の旅やマーティン・フロストの内なる生。

カウボーイ
暖炉と家庭
田舎の週末
ジョッキー・クラブ
探偵
スキャンダル
ジャンピング・ジャックス
行員物語
道具係
タンゴ・タングル
ミスター・ノーバディ
ダブル・オア・ナッシング
作中のヘクター・マンが失踪する前の喜劇監督映画

多くの断片的な物語のような現実を端から端まで生きるのが、人間かもしれないが、人間にとっての偶発的事象、偶然が断片化の契機にもなる。

ダブル、二重か無か。

だから、全部燃やしてしまいたかったんだろう。
何となくわからなくもない。

その痕跡を別の誰かが残してくれることに期待しながら。
あるいは、残っていることに偶然知るかもしれないという希望を持ったりしながら、僕もぼちぼち生きる。

絶望と偶然

絶望も偶然に過ぎない。
何しろ、人生はひとまとまりの偶然の共有で誰かと出会い、別れ、死んでいく。

偶然、失意の中で、ジンマーはヘクターマンを自分のテーマとして取り上げる。
アルマと出会う。
互いに偶然、書き続けていた。自分の現実とはかけ離れた幻影の書。けれど、完全にかけ離れているわけでもない、内部で繋がりを見せる、幻影の書たち。
他者によって互いに癒され、愛が生まれる。

他者なくしては、人間は冷たいままだろう。それに慣れてしまうと、暖かさを求めているのに冷たい残酷さで平気でひとを傷付ける。
ある日のパーティーでのジンマーのように。

ひとまとまりの偶然の共有

偶然、といえば、ムーンパレス の主人公、マーコの名付け親の親友がジンマーという名前だった。
今回のマーコは、本書の主人公ジンマーの息子だけれど。
ヘクターの残した映画の中に、『写字室の旅 』も出てくる。
もう少し他の作品を読んだあとに、読みたい。

オースターって作中作に自分の作品をパラパラしてみたり、似たような設定をフーガみたいに再登場させてみたり、ストーリーテラーとしても超一流だし、やっぱり面白い。
鍵穴メタとか数字遊びがきっと好きなんだな。

実存哲学的小説かもしれない。
哲学的思惟に想いを馳せれて良かった。

生、愛、絶望、死、喪失、希望、生、輪廻転生、森羅万象。

ひとまとまりの偶然の共有は1人では癒えない傷を癒したり、次への希望をもたらす時もある。
絶望の時であれ、偶然を必然と見なせる共犯者は愛おしい。

ひとは希望なくして生きれない。それが幻影であったとしても。素朴なひとたちの希望は絶対踏み潰してはならない。

L'homme est une passion inutile.
ひとは役に立たない情熱
L'être et le neant
J.P.Sartre

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