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『ピカソの遺言 私に乾杯を』― ポール・マッカートニー、名画家の最期と音楽の誕生

今回の記事は以下マガジンに収録させて頂きました。


Picasso’s Last Words (Drink to Me) - McCartney: A Life in Lyrics | Podcast

以下のpodcast「lyricsの人生」よりWingsの名盤"BAND ON THE RUN" の名曲「Picasso’s Last Words (Drink to Me)」を分解・分析させて頂きます。

伝説の画家ピカソの最期の日々

20世紀を代表する画家パブロ・ピカソは1973年4月8日、91歳でこの世を去りました。晩年のピカソは創作意欲に満ちあふれ、亡くなる前日まで新作の制作に励んでいました。ピカソのアトリエがあった南フランス・アンティーブの邸宅で、妻ジャクリーヌと友人たちが食事会を催していたその晩も例外ではありませんでした。

老画家は終夜制作の疲れも見せずに歓談し、「もう私には飲めない。私の健康のために乾杯を」と言葉を残します。これがピカソの最期の言葉となりました。翌朝、ピカソは急逝。巨匠の生涯の幕が下りたのです。

ポール・マッカートニーとの邂逅

かい‐こう 【邂逅】 思いがけなく出あうこと。

それから2ヵ月後の1973年6月。ビートルズのポール・マッカートニーはジャマイカを訪れていました。映画『パピヨン』の撮影で滞在していた俳優ダスティン・ホフマンの自宅に招待され、夕食会に参加したのです。

食事を終えた後、ホフマンがマッカートニーにひとつの提案をします。「何でも歌にできるかい?」。するとダスティン・ホフマンはタイム誌からピカソの訃報記事を取り出し、その最期の言葉を示したといいます。

「これを歌にしてみてくれないかい?」。友人たちを驚かせるべく、わざと無理難題をふっかけたのです。しかし、マッカートニーの答えは早く、ギターを手に取ると、その場でメロディーを歌いはじめました。

一夜に生まれた名曲『ピカソの遺言』

「文字通り瞬時だったんだ。物語を終えるとすぐにギターを弾きはじめたのさ。」ホフマンはのちにそう語っています。劇作家のセリフのようなピカソの名言を、マッカートニーは自然と歌詞へと昇華させたのです。

この出来事をきっかけに生まれたのが、ウイングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』に収録された「ピカソの遺言(Picasso's Last Words)」。前半部ではピカソの別れの言葉がストレートに歌われます。

しかし後半は抽象的な展開へ。“Jet”“Mrs Vanderbilt”といった過去の自作の断片がサンプリングされ、一貫性よりもコラージュが重視された実験的な構成となっています。キュビスム的とも言えるこのアプローチは、マッカートニーならではの遊び心の表れといえるでしょう。

普遍のメロディー

マッカートニーにとって、メロディーとリズムは大切な要素です。言葉そのものが持つ音楽性こそ、インスピレーションの源泉なのです。ピカソの遺言も友人ダスティン・ホフマンからの挑戦課題でしたが、そこに宿っていた潜在的なリズムとメロディーの美しさが、即興の名曲誕生へと導いたとされています。

またマッカートニーは、自作には多様性がありすぎて「一つの歌」とは言い難いと述べつつ、キュビスム的手法で過去の楽曲の断片を取り入れることの楽しさを語っています。様々な要素の新たなコンビネーションこそが、創作の喜びであることを感じ取れるエピソードではないでしょうか。

ピカソとマッカートニー、二大巨匠の邂逅

偶然の出来事が生んだこの逸話は、20世紀を代表する二大巨匠の意外な邂逅を感じさせます。老画家ピカソの最期の言葉がきっかけで、もう一人の巨匠ポール・マッカートニーの新しいメロディーが誕生したのです。

名画家の別れの言葉に秘められたメロディーを感じ取り、そこに自らの音楽性を織り交ぜる。マッカートニーならではの即興性と創造性の結晶が、この一夜に生まれたのです。偉大なる先達の最期が、新しいインスピレーションの種となった瞬間であったと言えるでしょう。

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