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ハードボイルド書店員日記㊴

短縮営業。店は8時に閉まる。だが8時に即帰れるわけではない。

「何だこれ。合ってる?」課長代理が首を傾げた。「いえ、全然」「だよな」最新鋭のレジが導入されて以来、締め業務の速さは各段に改善された。誤差の出るケースが減ったためだ。

レジ誤差を誘発する最大要因は「釣り銭渡し間違い」である。だがお札も小銭も自動的に排出されるシステムになったため「1万円と5千円を間違えた」「1000円余分にもらっていた」などのミスはほぼ絶滅した。だがそれでも人は間違う。時として不可解且つ不条理な事態が生じてしまう。

「交通系ICのマイナスは図書カードのプラスと相殺ですよね」「そこは打ち間違えで解決できる。でもクレジットaがどうしても合わない」「妙ですね。クレジットbはプラマイだし」カードの種類によって使う端末が変わるのだ。片方の総額がプラス、他方がマイナスで相殺というケースは時々ある。「面倒くせえなあ」課長代理はゴルバチョフみたいな頭頂部をぼりぼり掻き、電卓を無意味にいじった。

バイトの学生たちはすでに上がっている。彼ら彼女らのやるべき業務は全て終了したからだ。私は契約社員なので帰らない。だが実は帰っても一向に差し支えない。レジ締めの書類を作るのは正社員の仕事だから。しかしこの雰囲気で「お先に失礼します」とは言いづらい。だからアイデアを出しつつ事態の推移を見守っている。

「1000円以上の誤差はテナント事業部に報告しないといけないから厄介なんだよ」課長代理は提出する書類とレジを見比べ、頻りにぼやいた。同じフロアの他のテナントは全て閉まっていた。ライトも殆ど消えている。明るいのはここだけだ。閉店後の静かな書店も悪くない。但しいつでも帰れるのであれば。愚痴だらけのオジサンとふたりきりでなければ。

「早く帰りたいよなあ」「ええ」やはり課長代理は私が残ることを当然と考えていた。彼の入社したころはそういう空気だったのだろう。「他に考えられることある?」「そうですね……レジマイナスと返品の処理忘れとか」「もうチェックしたよ」「ポイント後付けのために二回打ってその分の返品処理をしていないとか」「どういうこと?」目の下が黒ずんだ丸顔に驚きの表情が浮かぶ。「そんなやり方、ウチはやってないよ」

彼は先月異動してきたばかりだった。「ここではポイントカードの後付け処理のときにそういうやり方を」「ダメだよ。ちゃんとレジマイナスしてから打ち直さないと。本社でルールを」「後でまとめてできるからみんなそうやってるんです」店長の指示で、と付け加えた。課長代理はマジかよと仰け反り、広い額を右手で押さえた。

「じゃあ、あれか、ポイントを付けるためだけに同じレシートをもう一度出すけど引き落としはしないってことか」「そうです。で、ポイントが残るようにレジマイではなく返品で処理する。その作業を忘れたのかも。だからレシートでは売り上げが立ってるけど、引き落としをしてないから誤差に」課長代理はマジかよと繰り返し、そのまま固まった。

「…すいませんが、事務所のパソコンでこのレジのジャーナルをチェックしてもらえますか?」「あ、そうだね」数十秒後「見つけた!」という叫びと共にカウンターへ戻ってきた。

「全く同じ内容のレシートを続けて二度出してる。しかも片方はポイントがついてない。ああ助かった!」「待って下さい、これは重要なミスですよ。クレジットの控えも数え直して」「細かいことは店長に任せようよ。これで報告書が書ける! やっと帰れる!」ドラクエの新作で遊ぶ子どもみたいな顔で書類を作り始めた。

数か月後、彼は本社へ異動になった。例のミスは返品処理をしようとした契約社員が彼に「これ急ぎなんで手伝って!」と大量の図書カードの包装を頼まれたことが原因だった。彼はそのことを最後まで認めず、全従業員を敵に回した。

最終出社日、私以外は誰も挨拶をしなかった。だが彼は嬉しそうだった。「やっと店から解放されたよ。でも君と離れるのは寂しいな。俺たち上手くいってただろ?」満面の笑みを向けてきた。

心の中で囁いた。「いえ、全然」

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