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ハードボイルド書店員日記【57】

土曜の出勤人数が少な過ぎる。特に午前中はあり得ない。

必然的に遅番が来るまで抜けられず、昼休憩が2時にまでずれこむことがある。今日もそのパターンになりそうだ。腸の音を押し殺すたびに己が人の身であることを痛感する。

「お腹すいた~」
隣で実用書担当が嘆いている。茶色い髪をポニーテールにした小柄な子だ。彼女も私と同様、土日両方に出勤している。「せめてどちらかは休みたい」と何度も訴えたが「新しい人が入ったら」とかわされ続けて現在に至っているらしい。先日は「『店長ずっと土日休みですよね』というファイナルウェポンが発動5秒前です」とボヤいていた。

「先輩、平気なんですか?」「何が?」「いろいろ」「もう慣れた」「私はムリです。早く食べたい」「何を?」「うーん、今日はハヤシライスにしようかなあ。横断歩道渡ったところに洋食屋さんがあるんです」「あそこはいい店だ。でも何でハヤシライスを」「最近、東野圭吾にハマってて」「『流星の絆』だな。あれも悪くない」「え、読むんですか?」目を円くして軽く仰け反っている。「俺は君の中でどういうイメージなんだ」「いや『東野圭吾がミステリィだと思ってるのか、フッ』『島田荘司を読め』みたいな」マスクの奥で下唇を突き出した。当たらずとも遠からず、かもしれない。

「東野圭吾は本格ミステリィを書ける人だ。でもそこで競っても先達のマスターピースには及ばないと悟り、路線を変えた」カウンター脇のPCの前に移動し、ある文庫本のデータを呼び出す。「これを読むといい」「『名探偵の呪縛』ですか。面白そうですね。あ、いらっしゃいませ」老若男女の群れがレジにどっと押し寄せた。

再び暇になった。「東野さん、最初は売れてなかったんですか?」向こうから話を振ってきた。申し訳程度に四六版のカバーを折りながら。「長らく初版作家だった。どの世界でもプロは数字で評価される。もちろんカネのためだけに働くわけじゃないが」「ですね。私も手芸と料理書がずっと前年比マイナスで、って嫌なこと思い出させないでくださいよ」忘れてもダメだろと腹の底でつぶやく。

「俺はでも人気シリーズ以外の単発もので、時々彼の秘めた矜持を見出すことがある」「『流星の絆』もそうだと」「そこまでは言わない」「言わないんかい!」この素直さと明るさが彼女の長所である。それも本人には言わない。

「食欲をそそるミステリィって他に思いつきますか?」即座に藤原伊織「テロリストのパラソル」を挙げた。「主人公の作るホットドッグが印象深い」「どんな感じですか?」「キャベツの千切りとソーセージ、あとはカレー粉」「普通ですね。簡単そう」「簡単なものほど難しいんだ」作中のあるキャラクターと同じ見解を述べた。「東野さんのミステリィも?」「あれは簡単ではないだろう」「あ、そうか。簡単に見えるものほど難しい、って意味ですよね」思わず彼女の目を見る。何事もなかったように欠伸を噛み殺していた。

交代時間になった。彼女は事務所に戻り、大慌てで打刻している遅番のミステリィ好きに「ねえ『テロリストのパラソル』のホットドッグって知ってる?」と尋ねた。「知ってるも何もこの前食べましたよ」「え? 先輩いまの聞きました?」「秋葉原の有隣堂書店だろ。あそこのブックカフェで食べられる」「マジすか!」彼女は早足で奥の女子更衣室に消え、1分後には私服姿で戻ってきた。

「ちょっと秋葉原まで行ってきます。間に合うように戻りますが遅れたらごめんなさい」一瞬言葉が出なかった。「まさか有隣堂に」「いまから『テロリストのパラソル』を買って電車の中で読みます。何か今日はホットドッグな気分なんです」乗り換えは要らないが、食べる時間を考慮に入れるとかなり厳しい。「ダメですか?」「いいよ。行ってきな」なぜかそう返した。「あ、でも先輩が店長に怒られちゃいますよね」「店長は今日も明日もいない」顔を見合わせる。ほぼ同時にサムアップした。「ファイナルウェポン、発動します!」

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