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ゆうぐれあさひ~after story~

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■本編

 家に帰ると、久しぶりに書置きがされてあった。母からだ。
 金の卵を見つけたから、浜松までちょっと行って来る、と書いてあった。浜松まで、ちょっと行って来るという距離でもないだろうに、と思ったが、久しぶりのことでちょっと懐かしくて、思わずくすりという笑みをこぼしてしまう。それが何だか癪で、書置きの紙を裏返してしまう。
 冷蔵庫には豚の生姜焼きが作って冷やしてあった。豚肉を覆い潰そうとばかりにきゃべつの千切りが山盛りになっている。コンロの鍋を見ると味噌汁が作ってあるので、夕飯は調達しなくていいや、と気が楽になる。
 母は三枝玲といい、大手出版社に勤めている。今はもう編集長なのだが、どっしりと座って構えている、ということができない性格で、まるで新人編集者のように方々に飛び回り、部下たちを振り回している。だから母が部下の人たちを家に連れてきたときには、心から「母が申し訳ない」と頭を下げるのだが、みなできた人格者ばかりで、にこやかに手を振って「いいえ、全然」と本当に気にした素振りもなく言うのだった。
 僕はその一人息子の三枝朝日といい、今高校二年生だ。都内の私立高校に通っている。特段変わったことのない、まあ、どこにでもいる高校生の一人だ。
 母はファッション雑誌や実用系の雑誌の畑を渡り歩き、文芸畑に移ってからは、水を得た魚のように働くようになり、それ以来文芸一本で、編集長まで上り詰めた。悪癖というか、フットワークの軽さととるか、巻き込まれる人にとっては悪癖なのだけれど、昔から有望な新人を見つけたり、何か作家に伝えたいことがあったりすると、その作家の元まで押しかけてしまう癖があった。
 今ではさすがになくなったものの、深夜や明け方に押しかけて、先方からお𠮟りをいただくこともしばしばあった。母は連絡先として自宅の番号も教えて歩いていたから、家に電話がかかってきて僕が対応し、平身低頭お詫びしたことも、一度や二度ではなかった。
 夕飯まで本でも読もうかと自室に戻り、ネクタイを緩めて鞄を学習机の脇に立てかける。本棚の前で腕を組んで眺め回し、どの本を読もうか考える。『ドン・キホーテ』、『ハムレット』、『金色夜叉』、『暗夜行路』……。気楽に読めそうだから、とデュマの『三銃士』に指をかけて、ふと思い出す。そういえば、佑介さんから本が届いていたな。
 机の引き出しを開けて中をかき回すと、ほどなく封筒に入った本が見つかった。ペーパーナイフで封を切り、中身を引っ張り出すと、それは白河凛の新刊の『夜のエクリチュール』という小説だった。
 佑介さんは母の知り合いで、僕が小学生の頃などは、母が突然飛び出して行ってしまうと、部屋にお邪魔させてもらった、兄のような人だ。中学校に上がってからはさすがに部屋に押しかけるようなことはしなかったが、時々会ったり、連絡のやり取りはしていた。
 白河凛は佑介さんの奥さんの翠さんのペンネームで、翠さんは「金の卵よ」と母が鼻息荒く発掘してきた小説家だ。デビュー作の『ゆうぐれあさひ』はいくつかの賞の候補にあがったが、惜しくも受賞はならなかった。その後も翠さんは精力的に作品を書き続け、発売されると僕のところに一冊送ってくれる。
 ベッドに寝転んで、『夜のエクリチュール』を開く。
 人ではない、本の中から迷い出てきた、物語の化身というべき「エクリチュール」と、人間の少女の交流を描いたストーリーだった。
 「エクリチュール」は畏まった物言いばかりするので、読み書きが苦手な少女には言葉が難しくなかなか理解できない。そのすれ違いが会話を面白い方向に運んだりして、ユーモアがあった。
 どことなく「エクリチュール」の言葉を追っていると、僕には一人の少女の声が頭の中で再生される。いやいや、馬鹿なことを、と思って頭を振ってその声を振り払おうとするのだが、振り払おうとすればするほど意識の根元にしがみついて侵食していき、意識全体に広がってしまう心地がする。
 本を枕元に置いて起き上がると、UV加工のカーディガン一枚を羽織って、家を出る。
 九月だが、残暑はまだ厳しい。真夏の、フライパンの上で炙られているような酷な暑さこそ和らぎ始めたものの、夕暮れの朧な陽光といえど、暑くも冷酷で、油断しているとあっという間に日焼けをする。
 自転車に乗って、カーディガンをはためかせて住宅地の坂道を下っていく。口笛を吹く。母の影響で聴くようになった洋楽だ。自分の中で気に入っているセットリストがあり、そのリストを上から順になぞっていくように、口笛で再生する。
 幹線道路に出ると右に曲がり、仕事帰りのサラリーマンなどを横目に見ながら走り抜けて行く。
 あと数年後には、自分もああなるのだろうか。
 背筋を丸めて、疲れて喘ぐように歩いているスーツ姿の大人を見るたび、そう思った。もっと子どもの頃は、ああはなりたくない、ならない、と自分に言い聞かせていたが、年経て段々大人になった自分という像が身近に近づいてくるにつれて、彼らを否定することは難しくなっていた。
 翠さんのように、自分の腕で生きていく才覚があれば。
 そう思うのだが、僕にも自分のどこにどんな才能があるのか分からない。知っている人がいたら教えてほしいくらいだ。勉強もそこそこ。スポーツも苦手ではないけれど、大活躍するほどの力はない。せいぜい体育の授業で活躍するくらいだ。それでは、何者にもなれない。
 かと言って、サラリーマンになっても母ほど仕事に情熱を傾けて生きていけるかというと、そうも思えない。何かに夢中になる、という経験が僕には欠けていた。思えば、子どもの頃から飽きっぽかった。アンパンマンに夢中になったかと思えば、きかんしゃトーマスに夢中になった。その影響で電車に興味を持ったがすぐにレゴブロックに興味が移って、そのレゴブロックも他の何かに取って代わられた。
 スポーツをやるのも好きだったけれど、やっぱり読書が好きだ。母の影響で、本に囲まれて育ったからそうなるのだろう。小説ばかりでなく、実用書も好きだった。園芸の本や、料理の本を読んで実践してみるのは何より楽しい。同世代のみんなは、スマホなどでゲームをやっているけれど、僕は本を読んでそれを実践することはゲームみたいなものだと思っていた。
 ゲームに行き詰まると、攻略本や攻略サイトを見るが、本を読むのはそれと一緒だ。ある物事への攻略法がそこに書いてあって、実践すると料理だったり、園芸、手芸など、趣味の物事を攻略することができる。それを繰り返して習熟すれば、もう本という攻略に頼らなくても、趣味を制覇することができるようになる。そんな面白いこと、他にあるだろうか。
 本が好きだ、と再認識して、本屋に行こうと決めた。このまま北上し、次の交差点で左に曲がってしばらく行けば、佑介さんの勤務する本屋がある。佑介さんにもしばらく会ってないし、行ってみようか。
 本屋の駐車場に辿り着くと、端に設けられた屋根付きの駐輪場に自転車を停め、店の中に入ろうとして、出てくるところだった女子高生とぶつかりそうになる。
「あ、すみません」、と慌てて頭を下げ、一歩下がって道を譲る。
「いや、こちらこそ」という凛とした声を聞いて、僕は思わず顔を上げて声の主を見た。
「なんだ、三枝か」、声の主はふうと息を吐くと長い黒髪を揺らして僕の横を通り抜けた。花の香りのような、甘い香りが鼻をつく。柔軟剤の香りだろうな、と思っていながらも、僕はそれが彼女の肌の香りのような気がして、途端に恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
「それはこっちのセリフだ。白岡」
 ふん、と鼻を鳴らした彼女は白岡朝陽。同じ私立高校に通う同級生で、それだけではなく、翠さんとも知り合いという縁で、小学校の頃からの顔馴染みだ。彼女の母親が翠さんの以前住んでいたアパートの大家をしていたのだ。
 僕は佑介さんの部屋にお邪魔することが多かったけれど、その佑介さんの紹介で翠さんとも知り合ったから、翠さんのアパートに遊びに行くことも多く、そうなると必然的というか、顔を合わせることになったのが、この白岡朝陽だ。
「試験前なのに余裕だな、三枝」
「お前もな、白岡」
 二人とも「あさひ」という響きの名前だから、長い付き合いだけど、僕らは名字で呼び合う。一時期名前で呼び合ったこともあるのだけれど、自分なのか相手なのかこんがらがって分からなくなるので、二人で協議した結果やめて名字で呼び合うことにしたのだ。
 ちなみに僕の成績は中の上、といったところだから、余裕などまったくない。勉強していないのは、単に現実逃避しているだけだ。その一方で白岡は違う。上も上の、トップクラスだ。しかもがりがりと勉強している素振りを見せず、飄々と上位の成績に食い込むものだから、クラスの中では彼女をやっかむ者も少なくない。そんなやっかみもものともしないで、泰然自若と突き進むのが白岡だった。
 白岡は僕の顔をじっと見て、「三枝、時間はあるか」と問うた。
「まあ、あるけど。なんだよ」、と僕はぶっきらぼうにしか答えられない。
「少し付き合ってもらえないか」
 心臓が飛び跳ねる思いをしたけれど、それをおくびにも出さず、「どうかな……」と腕を組んで考え込むふりをする。本当は答えなどとうに決まっているのだけれど、即答したのでは恰好がつかないような気がしたのだ。
「わたしとしては、お前に付き合ってもらえると助かるんだ、三枝」
 付き合う、というのは用事を少し共にするという意味だということは頭の中で分かっているのだけれど、心が別の意味に捉えたがってうきうきと沸き立ち、上気してくるのが分かるので辟易した。
「仕方ないな。いいよ、付き合おう」とため息混じりに言ってみせる。
「助かる。ありがとう、三枝」
 白岡の微笑みを見て、僕は心臓が口から転び出てしまうのではないかと思うほど早鐘を打ち、砂糖菓子のような甘い緊張感が胸を締め付けるのを感じた。
「で、な、何に付き合えばいいんだ」
 僕が訊ねると、白岡は市内の大型百貨店の名を挙げ、そこに行きたいのだと言う。自転車であれば十分ほどで辿り着ける距離だが、白岡は自転車を持っていない。どきどきしながら二人乗りを提案すると、「道路路交通法五十七条二項に違反する。二人乗りはできない」と断られてしまったので肩を落とし、結局バスで向かうこととなった。
「玲さんは、相変わらず飛び回っているのか」
 翠さんのアパートに遊びに行っているときに、母が迎えに来て、そこで白岡母子に挨拶をしたことがきっかけで、母と白岡にも交流があった。
 バスに乗って、白岡の前に座った僕の肩を叩いて、白岡は母のことを訊いた。
 僕は振り向いて、肩を竦めながら答える。
「部下に任せれば、とは言ってるんだけどな。自分で行かなきゃ気が済まないのは、まあ性分だよ」
 くすくすと白岡は笑って、「玲さんらしいな」と目を細める。
「あの人の器は、きっと編集長というものでは収まらないだろうな」
「その内自分で会社を興すとか言い出しそうで怖いよ」
「さもありなん、だな」
 僕と白岡は顔を見合わせて笑い合う。さっきまでの気恥ずかしさは少し薄れて、僕も普段に近い振る舞いができるようになった気がした。母には感謝だ、と心の内で呟く。
 バスはやがて目的地の百貨店前に着いて、僕らは百貨店に足を踏み入れる。
 百貨店は今でも込み合っているが、できた当初はこんなものではなかったらしい。母が子どもの頃に創業したというその百貨店は、都心から離れていることもあり、地元の顧客を余さず飲み込むような勢いだったらしい。行けばすれ違う人すれ違う人が知り合いで、出会うたび立ち止まって話すものだから、まったく店の中を進めなかったとか。それが自分たちだけではなく、あちこちで繰り広げられているのをみて、母も子ども心にぎょっとしたそうだ。
 今はそこまでのことはないが、夕方遅くということもあり、食料品売り場は込み合っていた。フードコートの脇を通り抜けながら、白岡は「付き合ってもらった礼に、何か奢る。何がいいか後で教えてくれ」と僕を一瞥する。
 僕は彼女に奢ってもらうことが何だか恥ずかしいことのような気がして、「いいよ、奢りなんて。大したことしてないし」と否定すると、「これから大したことをしてもらうんだ」と白岡は不敵に笑む。
 二階に上がって子どもの玩具コーナーを通り抜ける。玩具コーナーなんか久しく足を踏み入れていないなと思うと、置いてある玩具は僕に馴染みのない新しいものばかりだったけれど、不思議と懐かしい気分になる。
「なあ、ここって……」
 思わず立ち止まって、二の足を踏んでしまう。健全な男子高校生なら、同級の女子高生と足を踏み入れることに躊躇わないということがあろうか。当の白岡は僕の逡巡など理解できないように首を傾げている。引き留めなければどんどん進んで行ってしまいそうだ。
「ベビー用品だが。どうかしたか」
「どうかしたかって……、なんでここなんだ」
 中を歩いているのは、大きなお腹の妊婦や、小さい赤ん坊を連れた夫婦などばかりで、高校生の男女など歩いていない。二人でこの中を歩いているだけで、よからぬ邪推をされそうだ、とは思わないのだろうかと白岡を不審な思いで見つめる。
「知らないのか。翠さんのお腹には赤ちゃんがいるんだ。もうじき臨月だから、出産祝いを買っておきたくてな」
 翠さんが。しばらく会っていなかったから知らなかった。佑介さんも水臭い。そうなら言ってくれればいいのに。母は知らなかったのだろうか。いや、もし知っていたとしても、「忙しくてあんたに言うの忘れてたわ」とあっけらかんと開き直るような人だ。
「だが、わたしは贈り物のセンスがない。そこで翠さんとも知り合いの三枝に手伝ってもらえれば、助かるというわけだ」
「それは僕に贈り物のセンスがあるという前提に立っていないか?」
 ないのか、と不思議そうに白岡は小首を傾げる。
「あるわけないだろう。まして出産祝いなんて。お母さんに頼めばよかったじゃないか」
「いや、それでは白岡家からの出産祝いになってしまう。あくまで、わたし個人としてあげたい」
 妙なこだわりだな、と呆れつつも、もう僕は白岡に協力を約束してしまっている。今さらそれを違えるつもりはない。もし違えても、白岡は気にしないだろう。そういう奴だ。その一方で、僕の協力を確信しているある意味狡猾な一面もある。それを憎めないと思ってしまうのが、僕の弱みだ。
「分かった。協力すれば何かいい案が浮かぶかもしれない。行こう」
 僕は意を決してベビー用品のコーナーの中へと突き進む。
「三人寄れば文殊の知恵という。まあ、二人しかいないが。文殊菩薩には及ばずとも、いい案が出るだろう」
 時折白岡は難しい、よく分からないことを言う。僕はそういうときそこに引っかからないで、やり過ごすことにしている。そうでないと頭の中が白岡論理でいっぱいになって、具材を詰め込み過ぎたスープをかき混ぜたようになる。出汁も何もかもぐちゃぐちゃになって、訳が分からなくなる。
「白岡は何か考えているものはあるのかい」
 乳児用の知育玩具のコーナーを見ながら、新聞の形をしたくしゃくしゃにすると紙のようなかさかさとした音が鳴る玩具だとか、何度も引っ張り出せるティッシュ箱型の玩具などを持ち上げて眺めて、「おお、これは画期的だな!」とか「素晴らしいアイデアだ」などと言って白岡は興奮していた。
 僕の言葉に白岡は持っていた網状のゴムボールのようなものを引っかけて戻し、立ち上がる。
「贈り物の予算分の紙おむつ、というのはどうだろう」
 頭の中が実利的だな、と呆れる。
 だがまあ、悪くはないのかもしれない。必ず(布おむつ派でない限り)必要になるものだろうから、もらって悪い気はしない。だが、贈り物としてはいささか色気がなさすぎやしないかとも思う。後は紙おむつにするとして、見るとおむつにはパンツ型やテープ型があったり、当然のことながらサイズがある。それのどれを選択すればいいのか、まるで見当がつかないという問題がある。
 そのことを白岡に伝えると、白岡は腕組みをして悩んだ後で、「三枝の意見に理がある。他を探してみよう」と頷いて、先に立って歩き出す。
「これなんかどうだ」と白岡は知育玩具を持ち上げる。
 抱えるくらいの大きさのもので、家の中で赤ん坊がしたくて、大人がしてほしくない悪戯を疑似的に体験させる類の玩具だった。その中の一つにコンセントの抜き差しができる部分があって、僕は思わずぞっとした。
 僕が赤ん坊の頃、母がちょっと目を離した隙にコンセントの溝に指を突っ込もうとして、感電したということがあったらしいからだ。なぜコンセントは赤ん坊が届くようなところにばかりあるのか、と母はその話をするたびに憤慨していた。
「いいかもしれない。でも、大きなものだと翠さん、恐縮しちゃわないか」
「む。確かにそうだ。あの人は気遣いの人だからな……。倍になって返ってきかねない」
 だとしたら、と白岡は玩具を元の場所に戻し、僕の顔をじっと見つめて、「三枝は何がいいと思う?」と訊ねた。
 僕は売り場をきょろきょろと眺めた。あるものはよだれかけ……、スタイというのか。知らなかった。肌着などのベビーウェア。そこで目に留まったのが、靴下だった。
 ああ、なるほど。その手があったか。
「白岡、編み物ってやったことあるか」
 不意を突く質問だったのか、白岡はきょとんとして、「いや、ないな」と首を横に振った。
「だがなぜだ?」
「俺は靴下なんかいいんじゃないかと思うが、手編みで贈るのはどうだろうか」
 毛糸とかぎ針と、編み図が載っている本があれば、後は編むだけだ。下手に大きなものを買うよりは安上がりにできて、尚且つ他のどんなものを贈るより気持ちが伝わる。それにこれから寒い季節に突入していく中で、靴下は赤ちゃんのためにも重宝するはずだ。
「いい案だが、素人のわたしに編めるものなのか」
 そして僕の狙いはここにある。翠さんごめん、利用するような真似をして。
「編み物なら少し心得があるよ。赤ちゃん用の靴下くらいなら編めると思うから、教えるよ」
 本当か、と白岡は目を輝かせて、煌めくような笑顔を浮かべて僕の手を取る。
「わたしにはお前が文殊菩薩に見える」
 よく分からないが、喜んでくれているのは分かった。それと、白岡の笑顔を見ると、どんなことだってできる、やってやろうという気になることが。
「確か三階に手芸屋があったから、そこで必要なもの一式揃えよう」
 ああ、と白岡は頷いて、怪訝そうに「三枝は手芸にも通じているのだな」と言った。
「まあ、気休め程度にはね」
 謙遜するな、と白岡は僕の背中を叩く。
「わたしはすごいと思う。三枝は生活と結びついたことに長けている。料理の腕も玲さんが褒めていた。それから家庭菜園で色々な野菜を育てているだろう。わたしは驚いたんだ。お前の作ったさやえんどうを食べて、こんなにも甘い野菜なのか、と初めて知った。売っているものと全然違う味だった。それから今回の手芸も」
 褒められたことなどなかったので、妙な気分だった。それも白岡に褒められるなんて、認めてもらえるなんて。跳び上がりだしたくなるほど嬉しかった。でも僕はそこで素直になどなれなかった。僕にとっては、日常のことをあれこれできるより、頭のいい白岡の方が、何倍もすごいのだと思っていたから。
「白岡の方がすごいよ。涼しい顔してトップクラスの成績をとってるんだから。授業中、誰も分からない質問にも挑んで乗り越えていく白岡を、俺はかっこいいと思うね」
 白岡はふふっと笑って、「それならば」と僕の手を握る。
「わたしと三枝が手を組めば、怖いものなしだな。まるで自分の半身を見つけた気分だ」
 僕は白岡が意図して言ったのではないその言葉に、顔が火照って熱くなるのを感じた。
 白岡はすごいと思う。きっと僕がこの先言いたくてもなかなか言えない言葉を、するりと風が窓から入り込んでカーテンを揺らすように軽やかに、そしてささやかに言ってしまえるのだから。
「ゆうぐれに、二人のあさひ、だな」
 買い物を終えて外に出ると、街の向こうに沈んで行こうとする夕日を白岡が指さし、そう言う。
 白岡には敵わないよ、と僕は呟いて繋いだままでいる二人の手を、じっと見つめた。

〈了〉


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