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ゆうぐれあさひ~SIDEゲーテさん~

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■本編

 書店員の朝は早い。十時の開店に備えて、それまでにある程度の新刊を店に並べておかなければならないからだ。
 正社員で朝の時間帯の責任者である僕は、出勤すると店舗裏手にあるスタッフ用の通用口の警備を解除し、鍵を開けて中に入る。このとき大体七時半頃だ。
 ユニフォームに袖を通し、売上管理用の端末を立ち上げ、各種システムの電源を入れてスタンバイにすると、売り場に出る。
 その日入荷の商品が風除室のコンテナに山積みされているので、それを書籍と雑誌に分けて、書籍をバックヤードに、雑誌を雑誌の棚の前に運んでいき、雑誌はすぐに封を切る。そこでこの日はコミックの新刊の入荷があったことに気づき、コミック売り場に設置している、ビニールで梱包する機械、シュリンカーの電源を入れ、機械を温め始める。シュリンカーはある程度機械が温まらないと、ビニールが融着せずに剝がれてしまう。そのため早めに電源を入れておくのだ。
 入荷漏れがないかどうか確認しながら雑誌の袋を開封し、開けた雑誌はそれぞれ分野別に分かれた売り場に応じて置いていく。
「遅くなりました」
 そう言って翠さんが駆けつけてくる。僕は「大丈夫です。今始めたところですから」と彼女の姿を見られることが嬉しくて表情を崩し、慌てて真顔に戻して言う。
 翠さんはこれまでパートタイムで働いていたけれど、彼氏さんと別れたことで自分の生活を見直し、春から契約社員で働いていた。うちの店で契約社員というと、立場的には正社員である僕の補佐ということになり、これまで対等だったスタッフ相手にもいろいろ指示をしたりする場面が増えた。だが、翠さんの朗らかな人柄のおかげか、スタッフもよく協力してくれて、逆に彼女を支えてくれていた。
「行きがけに朝陽ちゃんに捕まっちゃって」
 ああ、と僕は年齢の割に大人びた少女を思い出して笑みをこぼした。
「今日はなんだって」
「ええ、いえ、あの」
 翠さんは困惑気に笑みを浮かべて言い淀んでいた。言いたくないことなら無理に言わなくても、と思って言葉をかけようと思っていると、翠さんは意を決したように顔を上げた。
「今日、お誕生日ですよね」
 え、と虚を突かれてどぎまぎしてしまうが、確かに今日は僕の誕生日だ。僕自身さして興味もないので忘れていたくらいなのだが、彼女は覚えてくれていたらしい。
「そう、言えばそうだったね」
 翠さんは頬をほのかに染めながら、「一緒にお祝い、しませんか」と口にした。
 驚いて思わず「いいんですか」と疑問にして口にすると、翠さんはこくりと頷いた。
「あなたのお誕生日を、一緒にお祝いさせてください」
 親元を離れて幾年。誕生日を人に祝ってもらうことなどなかった。誕生日に朝陽ちゃんがアパートに突撃してきて、一人分のケーキを手に、「祝いだ。受け取れ」と押し付けて帰っていったのは、祝われたことにカウントしていいのか分からないが、真っ当に祝ってもらうなんてことは、本当に久しぶりだった。
 朝陽ちゃんは僕のアパートと目と鼻の先のアパートに住んでいて、そこの大家の娘だった。この春から中学校に上がったばかりで、生意気盛りの女の子だ。物怖じを知らないみたいに振舞うし、女の子らしくない口ぶりが特徴的だった。
 僕が郷里を離れたのは、大学進学がきっかけだった。大学では文学部に進み、国文学の研究に明け暮れたが、院に進もうかどうか思案したが、父親が急死したため、学費の捻出が困難になり、就職することを選んだのだった。
 就職先として、大学からも離れていて、実家からも遠い、縁もゆかりもないこの書店を選んだのは、SNSでこの店のオーナーと知り合いになったからだった。
 オーナーは先進的な考えを持つ人で、旧態依然とした書店の経営をしていれば滅びの道まっしぐらで、雑貨やカフェと組み合わせるやり方も古い。これからは蔵書などにコンセプトをもたせた、個性的な書店が台頭してきて、生き残っていくだろうと考えていた。その考えが売り場のあちこちにも現れていて、売り場のジャンル担当者は、自分の知識や趣味を前面に押し出して売り場の制作に励んでいた。
「あの、いいですか」と翠さんが僕の顔を覗き込んできて、心臓が飛び跳ねる。
「あ、はい。もちろんです。よろしくお願いします」
 まるで仕事を頼むかのように改まってしまうのが、僕の社交力の乏しさだ。翠さんもおかしそうにくすくすと笑っている。
「ちなみに朝陽ちゃんは何て言ったんですか」
 なんとなく想像がつきそうな気はするけれど、その斜め上をいくのがあの子だ。
 翠さんは苦笑して、「『今日は佑介の誕生日だから、祝ってやれ』って」と言って、それから、と付け加える。
「『生まれるは、倦まれる、だ。誕生日は嬉しいものだが、大人にとっては憂鬱なものでもある。それを分かち合ってやれ。愛が生まれるかも。しかし愛に倦むなよ』って」
 また難しいことをこねくり回して言ってるなあ、と呆れてしまう。だけど朝陽ちゃんについて話しているときの翠さんの目はきらきらしている。その輝きが、僕は愛おしい。
「それじゃあ、早いとこ仕事を片付けないとな」
 僕は雑誌の山を抱えて立ち上がる。そうですね、と翠さんも僕を見上げながら微笑んで頷く。
 翠さんと出会うまで、恋をしたことがなかったわけではないが、どうしても僕は臆病になっていた。
 自分が誰かを好きになったとしても、その誰かが自分を選んでくれるはずがない、そんな思い込みが僕の根底にはあった。誰かが選ばない。いや、違う。運命のようなものが、僕を選ばない、という感覚。
 最後に付き合ったのは、大学在学中のことだ。
 付き合っていた女の子は束縛が激しい子で、LINEや連絡が五分でも遅れようものなら、執拗に何をしているのか、誰といるのか、浮気じゃないのか、などと矢継ぎ早にメッセージが飛んできて僕を辟易させた。まかり間違っても女友達が含まれるグループと遊びに行くなんてことはできず、男友達と遊ぶことだって難色を示された。
 僕がそんな彼女に付き合えず、別れを切り出すと、彼女は僕のアパートから飛び出して行って、遮断機の下りた線路に立ち入り、「死んでやるんだから!」と鬼気迫る表情で叫び、狼狽した僕が急いで彼女を引きずり出し、別れを撤回する羽目になるのだった。
 そんな愁嘆場を何度繰り返しただろう。僕は疲弊しきってしまっていた。そんなとき親しくなった女性がいた。行きつけのカフェの店員で、三つ年上の女性だった。自立して働いている彼女は誰かに寄り掛かることなく、自分の人生に自分で責任をもっているように見えて、僕には眩しかった。
 確か名前は、加藤さんだった。下の名前は忘れてしまった。下の名前で呼ぶほど親しくはなれなかったからだ。
 カフェは僕が一人で行くことを許された数少ない場所だった。なぜならば、彼女はコーヒーが嫌いだったからだ。匂いだけでも耐えがたいらしかった。
 ある日加藤さんがコーヒーを給仕してくれたとき、ソーサーの下に紙片が挟まっていることに気づいた。思わせぶりな目配せを残していった加藤さんの端正な顔を思い浮かべながら、紙片を手に取るとそれは彼女の連絡先だった。
 すぐに連絡はしなかった。彼女の目があったからだ。着信履歴をチェックされて不審な電話番号があれば、彼女は直接かけて誰に繋がるか確かめただろう。だから僕は折を見て公衆電話から電話をかけた。運のいいことに、僕が住むアパートのそばに市の施設があり、その施設の外に公衆電話のボックスがまだ生き残って存在していた。
 公衆電話からの着信を、加藤さんがとらない危惧もあった。だが、加藤さんは電話をとってくれた。
 僕はその電話で久しぶりに人間らしい会話をした気がする。公衆電話からかけている理由、僕を取り巻く状況、そんな話を、加藤さんはうんうんと真剣に聞いてくれた。きっと好意をもって連絡先をくれたであろう女性に、未熟な僕は恋人の悩みをぶちまけていたのだった。加藤さんは、その僕の未熟ささえ、包み込んで認めてくれた。
 だが、二度と加藤さんに連絡することはなかった。
 連絡先の紙片を隠しておいたのだが、それを彼女に見つけられてしまったのだ。男友達だよ、とか誤魔化した。しかし既に彼女は電話をかけて番号の持ち主が女性だということを確かめていたのだ。
 裏切者、と叫びながら飛び出して行った彼女を追いかける気力は、僕にはなかった。
 いつものように線路に立ち入った彼女は、僕が追いかけて来ないと知ると自ら線路から出て姿を消し、そしてその日の夜自宅アパートの浴槽で手首を切り、自殺を図った。
 彼女を発見したのは彼女の姉だった。妹から連絡を受けて、呂律が回らない様子から尋常ではないものを感じ取り急行したところ、自殺を図った妹を発見したというわけだった。彼女は睡眠薬も規定量以上飲んでいた。
 彼女の両親は彼女の話から僕の存在を突き止め、アパートまで押しかけると僕を罵倒し、殴り飛ばして、「二度と娘に近付くな」と言い残して立ち去って行った。
 その言葉を聞いたとき、僕は初めて「ああ、終わったのだな」と実感し、涙をこぼした。彼女と付き合っていた間、涙は渇いていた。流したくとも流れなかった。
 加藤さんの連絡先の紙片は彼女に持ち去られていたし、加藤さんは店を辞めてしまっていたので、連絡することができなかった。彼女の存在が、加藤さんにも暗い影を落としてしまったのかもしれないとおもうとやるせなかった。
 彼女の存在は僕の運命のようなものだった。僕の前に現れて、すべてを薙ぎ払い壊していく。だがその運命が不在となったとき、僕は自由になったはずなのに、新しい恋をしようという意欲を削ぎ落されたように失っていた。
 翠さんと出会ったときもそうだ。運命は翠さんの彼氏、という形で聳え立ち、僕が彼女に踏み込むことを妨げていた。踏み込めばよかったのかもしれない。だが、自分に恋人がいるとき、別の女性が踏み込んできて悲惨な末路を遂げたことを考えると、翠さんの人生を壊してしまいそうで、怖かったのだ。
 僕は臆病だった。本当に恋しいと思うのならば、恐れず踏み込むべきだったのだ。そうすれば、翠さんを苦しみの中から早く救い出せていたのかもしれないのだから。
 でも、もう僕の前に運命はない。ただ翠さんがいるだけだ。
 店の近くにイタリアンレストランがあって、そこを翠さんは予約してくれていた。
「お誕生日、おめでとうございます」
 料理がくるまでの手持ち無沙汰な間、僕は緊張してしまって、しどろもどろに仕事の話という無粋な話を繰り広げていたが、それも間がもたずに二人の間に沈黙が流れたとき、翠さんが鞄から取り出して長方形の箱をすっと差し出した。
 プレゼントまで用意してもらっているとは思わなかったので、僕は心底驚いた。「開けても?」と訊くと翠さんも頷くので、箱の包み紙を丁寧に開け、箱を開けると、ネクタイだった。紫地に白いドットの入った、有名ブランドのネクタイ。
「似合うかなと思って」と照れ臭そうに言う翠さんを、できることならその場で抱きしめてしまいたかったけれど、そうするわけにもいかないので、ネクタイを抱きしめて「大事にさせてもらうよ」と言ったところで前菜のサラダとスープが運ばれてくる。
「誕生日も三十を越えると」と翠さんはスープを口に運んで、ハンカチでそっと口元を拭うと顔を上げて切り出した。
「朝陽ちゃんの言う通り嬉しくも憂鬱なものになります」
 まだ三十歳は離れたところにあるが、もうその足音は聞こえつつあった。だから翠さんの言わんとすることは何となく僕にも分かった。
「でも、誰かと一緒に年をとるということは、案外悪いものじゃないんじゃないかなと思います」
 その誰かが、僕であってほしいと願わずにはいられない。
 翠さんは、僕に好意を抱いてくれている、と思う。言うまでもなく、僕は翠さんが好きだ。でもお互い肝心なところで一歩を踏み出せずにいて、決定的な言葉を避けている。僕の好意だって翠さんに伝わっているだろう。でも、相手の懐に飛び込んでしまえる勇気が僕らには欠けていた。
 だったら今日はいい機会なんじゃないのか。僕は赤ワインのグラスをもって勢いよく腹の中に流し込む。ワインは白やスパークリングワインなら飲むことはあったけれど、赤は忌避していて、あまり飲んだことがなかった。酸味と渋味が強くて、ちょっと苦手だったのだ。だけど今日に限ってはシェフがメインの肉料理には赤が合います、なんて言うものだから、翠さんの前で格好つけて赤ワインを頼んでしまった。
 それを一気に飲み干すような馬鹿をしたのが、この日の最大の失敗だった。
 一気にアルコールが入ってしまって、体と顔がかっかと熱くなり、胃の腑が焼けただれたようなむかつきを覚えて、その後のことはあまりよく覚えていない。ふわふわと自分の意識が体と別のところに浮かんでいるようで、僕は僕が上機嫌で多弁に喋っているのを冷ややかな目で見つめ続けていた。
 その僕は翠さんが笑顔で話を聞いてくれるので気をよくして、仕事や本のことばかり喋り散らした。おまけにワインを追加で注文し、水を飲むようにワインを呷り、何を食べたのかなんてまるで覚えちゃいなかった。
 最後には記憶を失くして、気がついたときには夜中で、僕は翠さんのアパートにいた。
 頭が割れるように痛くて、蛍光灯の光が目を突き刺して、その痛みが頭にまで響くようだった。頭は痛いけれど、後頭部に触れる枕の感触は柔らかくて心地いいな、と思っていると、翠さんの顔が覗いて「目が覚めました?」と心配そうな声で言った。
「ええ、はい」
 いてて、と起き上がろうとすると翠さんに優しく制され、「まだ寝ていてください」と言われたときに初めて状況が飲み込め、今自分は翠さんの膝の上に寝ている。そう思うと、嬉しさと恥ずかしさで顔が真っ赤になっているのが自分でも分かった。高熱が出たときのように、顔が火を吹くように熱い。
「心配しました」と翠さんは咎めるような目で見つめる。
 面目ありません、と僕は言い訳すらできなかった。
「ここは、翠さんのアパートですか」
「ええ。朝陽ちゃんママに手伝ってもらって部屋まで運びました」
 本当に申し訳ありません、と僕は恐縮しきって縮こまっていた。
「そのネクタイ」と翠さんが僕の胸元を指さす。いつの間にか僕は翠さんにプレゼントしてもらったネクタイをつけていた。自分でしめたのだろうが、酔っていたせいで手元が定まらず、ネクタイの結びは甘いし曲がっていた。
「似合っています。喜んでくれてよかった」
 なんとなく思い出した。僕は仕事の講釈を垂れている間に、ネクタイを解いて、翠さんのネクタイがあればいくらでも働けます、と豪語してたどたどしくプレゼントのネクタイをしめたのだ。そのとき翠さんは苦笑して「働くのはほどほどにしてくださいね」と言っていた。
「翠さんからのプレゼントですから、一生大切にします」
 僕は名残惜しかったけれど起き上がって、翠さんの手を握ってそう言った。彼女は驚いた顔をしていたが、やがて花咲くような笑顔になって、「はい」と頷いた。
 頭痛が走って、痛みに顔をしかめて頭を押さえていると、翠さんは立ち上がって水を持ってきてくれた。僕はそれを一息で飲み干すと、遠ざからない頭痛に耐えながら、グラスにぼんやりと映った自分の顔を眺め、ひどい顔だなと思った。
 好きな人に誕生日を祝ってもらった男の顔とは思えなかった。むしろその逆の恋に破れた男の顔、と言った方がしっくりくる顔だった。
 僕らは踏み込むのを恐れている。お互い、過去の恋愛経験から。ひょっとしたら踏み込んだら終わりを告げる関係なのかもしれない。でも。それでも、僕は踏み込みたいと願ってしまった。翠さんの特別な一人になりたかった。
 翠さん。
 真剣な顔で、居住まいを正し、名前を呼んだ。翠さんも僕の神妙な顔に気がついて、居住まいを正して「はい」と落ち着いた声で答えた。
「僕は翠さんが好きです。初めて会ったときから。あなたのことを一生大切にします」
 翠さんは涙をこぼしながら、笑みを浮かべた。「まるでプロポーズですね」
 そのつもりです、と胸を張って宣言すると、翠さんは一層涙を流し、嬉しそうな笑みを浮かべて、感情も表情もぐちゃぐちゃになって、彼女は泣き続けた。
 僕はそっと歩み寄って翠さんを抱きしめると、頭をそっと撫でた。きっと彼女には、こうしてあげる人が足らなかったのだろうと思う。頑張り屋で、弱みを見せない強い人だからこそ、そばにいて抱きしめて、安心できる胸の中で思う存分に泣かせてやれる、そんな人が必要だったのだ。そして僕は、翠さんにとってそういう存在でありたいと思う。
「わたし、年上だし、地味だし、なのに気が強いところがあるかもしれないけれど」
 そんなわたしでも、いいですか、と胸の中で顔を上げ、僕を見上げてくる翠さんは、この上なく愛らしくて、愛おしかった。
「僕は年の割に老けてると言われますし、翠さんはきれいです。僕は翠さんがしっかり自分をもっているところが好きです」
 翠さんはそれを聞くと赤くなって、僕の胸に顔を埋めて、「はい……」と恥ずかしそうに返事をした。
「こんなわたしでよかったら」
 僕は「翠さんしかいないんです」と言って強く抱きしめる。
 僕らはその日、抱きしめ合って眠った。それ以上は踏み込まなかった。ただ相手の温もりを感じながら眠る。それが足りなかった僕たちは、ただそれだけで幸せだった。
 翌日シフトが入っていたのは僕だけで、翠さんは休みだったので、朝早く翠さんを起こさないように出かけようと思っていたら、翠さんは僕よりも早起きをして朝ご飯を作ってくれていた。玉子焼きに納豆、味噌汁。小鉢に肉じゃがもある。
「おはようございます。朝ごはん用意したので、食べていって」
 翠さんのエプロン姿、と見とれているほどの時間はないので、早速テーブルについて朝食をいただく。
「幸せ過ぎて今日死ぬんじゃないかと思います」
 翠さんはくすくすと笑って、「だめよ、縁起でもない」と言いながらお茶を出してくれた。
 食べ終えるとプレゼントしてもらったネクタイを翠さんがしめてくれた。「男の人のネクタイをしめてあげるのなんて、父以来だわ」と苦戦しながらもきれいにしめてくれてそう言った。
「時々しめてもらえると嬉しい。毎日だと自分でしめ方忘れちゃうから」
「ふふ、そうね」
「じゃ、行ってきます」
 いってらっしゃい、と翠さんはひらひらと手を振る。
 ドアを開けて外に出ると、朝陽ちゃんが隣の部屋の前で腕を組んで仁王立ちして待ち構えていた。
「朝帰りか! いいご身分だな」
「早いね。まだ登校まで時間あるだろう」
 朝陽ちゃんはずんずんと歩み寄ってくると、僕の腹を殴って、「警告しておかないとな」と怖い顔をして見上げる。
「警告?」
 そうだ、と頷いて再び腕を組む。
「翠さんを泣かせるようなことがあれば、あたしが許さん」
 その場でシャドーボクシングを始める。ボクシングを習っているのかというくらい様になった動きだった。
「あの人の喜びも悲しみも、一緒に背負ってやれるのか。前の男はそうじゃなかった。だから翠さんは傷ついた。あたしは、同じことを繰り返してほしくない」
 朝陽ちゃんの動きに合わせて手を差し出し、彼女の拳を受け止めた。はっとした顔で僕を見上げていた。
「受け止めるよ。どんなことでも。約束する」
 朝陽ちゃんは手を引っ込めて、照れ笑いを浮かべると、「ついでに佑介の幸せも祈っておいてやる」と視線を逸らして口を尖らせながら言う。
「ありがとう、朝陽ちゃん」
 そう言って頭を撫でると、素早い動きでその手を払われ、「さっさと仕事に行け!」と怒鳴られてしまったので、そそくさと退散する。
 深い青色の空に、世界地図のような雲が浮かんでいた。それを余さず照らすような黄金の朝日が走っている。
 僕と翠さんの始まりはこの朝日だ。人生が夕日を迎える頃になっても、今日この日の想いを変わらず抱いていけるよう、僕はこの朝日に誓う。

〈了〉

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