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ある日の夢~海水浴~

■まえがき

今回の短編はタイトルの通り、ある日見た私の夢を元にした小説です。
以前アップした『ぜい肉くん』に近い方式で作ったものです。
最近長めの気合が入った短編を続けて書いたので、ちょっとお疲れ気味です。気分転換に少し短めのものをご提供いたします。
暑い日が続いているとはいえ、まだ海水浴には早い時期ではありますが、夏を先取りして一足先に、夢まぼろしの中に夏の光景を覗いてみてはいかがですか。

■本編

 海へ行った。暑さにばてて少しパラソルの下でまどろんでいたら、子どもの姿が見えなくなった。
 おうい、と砂浜で呼びかけてみても、返事はない。砂の山を作っている他所の子どもが怪訝そうに私を見ていた。
 息子は好奇心旺盛だけれども、打ち寄せる波が怖いらしく、ずっと砂浜で遊んでいた。そのために油断してしまったということもある。元来怖がりな息子は、私のそばを決して離れようとはしないはずだった。それなのに姿が見えないということは。
 私は冷や汗をかき、焦りながら砂浜を駆けずり回った。すれ違う子どもすれ違う子ども、うちの子ではないかと顔を覗き込んで確かめもした。それでもまったく見当たらない。
 海辺の端から端まで走って、それでも息子の姿が見えないので私は血の気が引いてしまった。まさか一人で海に出たということはあるまいと思いつつ、生来の好奇心がもしや鎌首をもたげて誘惑したのではあるまいか、と思ってざぶざぶと海の中に入って息子を探す。
 海で遊んでいる子は小学生より大きな子ばかりで、幼稚園生の息子の姿はやはり見えなかった。それでも私は沖の方まで泳いでいき、波に興じている大学生らしき男女に小さな子を見なかったかなど確かめてみたが、彼らも見た覚えはないと言うのだった。
 諦めて海から上がろうとすると、「パパ!」と息子の声がして、息子が砂浜の向こうから走ってくる。私も急ぎ海から上がって駆け寄り、息子を抱きしめると私の体が冷え切っていたのか、息子がぶるると震えて、「パパ、海で遊んでたの。一人で」と呑気なことを言う。
「お前を探していたんだよ」
 しっかりと抱き締めると、息子は冷たい、苦しい、と不平を言って離れる。
「この人がトイレに連れて行ってくれたの。パパ寝てたから」
 息子がそう言って手をとって初めて、そばに一人の女性が立っていることに気づき、私は顔を上げて礼を言おうとした。
 そして雷に打たれたような気持になった。
 そこに立っていた女性は、やや細身すぎるきらいはあったけれど、これほど美しい生身の女性をこれまで見たことがあろうか、と思わず嘆息してしまうような人だったのだ。
 麦わら帽子から垂れる長い黒髪は真っ直ぐと絹糸のようで、手足もすらりと細く長く、背も平均的な男性以上の高さがあり、モデルのようだなと感心せざるを得なかった。
 私は見とれてしまって礼を言いそびれていることに気づいて慌てて頭を下げ、「ご面倒をおかけして申し訳ない」と謝ったが、その人は麦わら帽子の奥の目を柔らかく細めて、「面倒だなんて。わたしが息子さんに遊んでもらっていたくらいで」と手を振った。
「おねーさん、ハルさん。遊んでくれたの。砂のお山作るの上手なんだよ」
 トイレに連れて行ってもらったのみならず、遊んでもらっていたとは、と私がなおも恐縮すると、ハルさんの方がかえって恐縮して、困った笑顔になっていた。
「あの、図々しいようですけど」とハルさんはおずおずと言う。
「もう少し息子さん、カイちゃんと遊ばせてもらってもいいですか」
「ああ、それはもう。遊んでいただければカイも喜びます」
 わあ、とカイが歓声を上げ、ハルさんこっち、とすっかり懐いた様子で彼女の手を引いていく。息子は人見知りで、幼稚園でも同じ年ごろの子に慣れて友だちになるのに時間がかかる。ましてや大人相手だと、もう幼稚園も年中だというのに、泣き出してしまうこともある。私の父母、カイの祖父母に慣れたのも、最近になってようやくだというのに。どうやらハルさんには子どもを惹きつける魅力があるらしい。
 カイはハルさんを引っ張って行って、放り投げてあったプラスチックのシャベルなどで穴を掘り始めると、砂を積んで山にしていく。ハルさんはバケツに水を汲んで砂山に垂らして山を少しずつ固め、カイが砂山を作るのをブルーのスコップで手伝う。
 私が歩み寄っていくと、カイは砂山を作るのに熱中していて、ハルさんはそんなカイを眩しそうな目で見つめていた。
「この辺りの方なんですか」
 私はハルさんの隣にしゃがみ込み、カイの楽しそうな顔とハルさんの憧憬と悲しみが混じったような顔を交互に眺め、そう訊ねた。
「いえ、県外から遊びに来てるんです。年に一度、この海水浴場に」
 ハルさんは麦わら帽子を押さえて空を眺めた。深い碧のような海の色よりも爽やかな青の空には、ウミネコが二羽戯れるように飛んでいた。
「それじゃあカイは、運がよかった。うちも年に一度なんです。年に一度の日が一致するなんて随分な偶然ですね」
 そうですね、とハルさんは微笑んで頷くと、「今日は奥様は?」と問うた。
 はは、と私は頭を掻いて、「風邪を引いたので留守番です」と答えると、それを聞いていたカイが「ママはね、お仕事の疲れっていうので風邪ひいたの」と自分だけが知っている秘密を披露するかのように、手を口にかざして、ひそひそと言う。
「そうなんだ。ママ残念だったね、来られなくて」
 うん、と寂しそうにカイは俯くが、ころっと表情を変えて甘えるような笑顔になり、「今日はハルさんがいるから」と言うのでハルさんも相好を崩して笑む。
「しかし、うちの子と遊んでもらっていてはご迷惑じゃありませんか。お連れの方とか」
 言いながら内心で疑問を抱いてはいた。彼女のような美人が独り、というのは考えにくいがしかし、ハルさんにはどこか孤高な雰囲気が漂っていた。たった一人で完結し、砂浜を歩いていても絵になるような雰囲気が、彼女には纏わりついている。
 ハルさんは首を横に振って、「一人で来ているので大丈夫です」と言うと、カイにせがまれて海に水を汲みに行こうとするので、私が代わって行くことを提案し、バケツを掴んで立ち上がる。
「パパは水汲み係!」と任命されるので、「はいはい」と謹んで拝命する。
 押し寄せる波に足を浸すと、キンと体の芯まで冷えていくような心地がする。足元を誰かが逃がしたのか、二匹の蟹が波に押し戻されては挑み、押し戻されては挑み波打ち際で悪戦苦闘していた。
 蟹にとって波とは「運命」のようなものだろう。抗えない、巨大な存在。運命が目に見えているだけ、蟹は人間よりも幸福なのかもしれない。
 私が子どもの頃も、カイのように両親に連れられて、この砂浜に遊びに来ていた。年に一度の楽しみだった。
 私は一人っ子だったし、特に両親も遊んでくれたりはしなかったから、波打ち際に座って波に耐える遊びや、木の棒などを探して、波を巨大な敵に見立てて木の棒で戦いを挑む遊びなど、飽きないように想像力を逞しくして遊んでいた。
 ある年、同じように遊びに来ている少年と仲良くなり、日が暮れるまでその子と遊んだ。色白で内気な質の少年で、私が一日中引っ張り回して、私の遊びに付き合わせたようなもので、今考えると申し訳なくなってくる。
 だが、彼との一日は、私の中で大事な思い出になっている。
 戻ると、カイの傍らにバケツを置いてやり、ハルさんの隣に腰かけた。
 ハルさんは隣に腰かけた私の顔をじいっと見つめていた。美人に見つめられると、どぎまぎしてしまう。だがそれは自己を肯定する感情ではなくて、何か見つめられるような不手際があったのではあるまいか、という罪悪感にも似た負の感情である。
「あの、何か」
 ハルさんははっとして、「あ、ごめんなさい。つい」と頬を赤らめながら頭を下げ、慌ててカイの方に視線を巡らせる。
「子どもがお好きですか」
 言った後で、踏み込むべき質問ではなかったかと後悔するが、口から出てしまったものは仕方がない。どんな反応が返ってくるかは不安だったが、待つしかないと平静を装ってハルさんの横顔を眺める。
「はい。わたしは、子どもを産むことができませんから。一層可愛く思えます」
 ハルさんの悲しそうな横顔に、私は言葉を継ぐことができなくなった。
 ハルさんは私の表情が曇ったのを察して、慌てふためいて手を振って、「あの、深刻な事情とかはないので、大丈夫です」と笑顔を浮かべて見せた。
「いや、そう言われても」と私が困惑していると、ハルさんは困ったように頬を掻いて、抱えた膝の間に顔を埋めてこちらを向いて言う。
「生物学的に産めない、というだけのことですから」
 うん? と私は首を傾げてしまう。どういうことだ、それは。
「ああ、やっぱりお気づきじゃなかったんですね」とハルさんは申し訳なさそうに言う。
「わたしは男ですよ。こんな格好していて紛らわしいですけど」
 いや、まさか、と口にして笑った私だったが、ハルさんが真面目な顔をしているので、「本当ですか」と訊ねると、「本当なんです。騙したみたいでごめんなさい」と苦笑して言った。
 いや、信じられない。とまじまじとハルさんを眺め回してしまうと、「そんなに見られると恥ずかしいです」と頬を赤らめ恥じらった仕草も女性にしか見えない。
「昔ここで一緒に遊んだ男の子に言われたんです。『お前可愛いよな。男にしとくのが勿体ないよ』って」
 罪なことを言う子どももいたものだ、と思いながら、ハルさんの今の美貌を考えれば、子ども時代もさぞ可愛らしかっただろう。同性を魅了するような妖しい美しさをもっていても不思議ではない。
「わたし、内向的な方で。男の子、って感じのその子と遊んでいて、その子のことが好きになって。そんなこと言われたから、次に会うときには女の子らしくなって驚かせようと思ってたんです」
「それで、驚いたんですか、その男の子」と訊くと、ハルさんは首を振って、「会えませんでした」と海を、水平線を眺める遠い目になる。
「どの年に行っても、その子とは会えなかったんです。お互い年に一度だったから、その一日が重なる確率なんて、相当に低いですよね」
 そうですねえ、と私は腕を組んで考え込む。
 それが運命だったのかもしれない。押し寄せる波に押し返される蟹のように、すれ違い、という波となって押し寄せる運命に翻弄されてきた結果。
「もしその子に会えたら、なんて言ってやりたいですか」
 私の問いに、ハルさんは思わせぶりな眼差しで見つめて、ふふと妖艶な笑みを浮かべる。
「わたし、きれいになったでしょ」
 艶めかしく動く赤い唇に目が吸い寄せられ、一瞬私は自分に向けて言われているように錯覚した。「ああ、そうですね」とぽーっとした胡乱な頭で答えると、ハルさんはくすくすと笑って、「いやだ。お父さんに言ったんじゃないですよ」とそっと私の肩に手を置いた。その手のひやりとした感触にぞくりとして、背筋をむずがゆい何か、かさかさと蠢く甲虫のようなものが走り抜けていったように感じた。
「それじゃあわたし、そろそろ」
 ハルさんは立ち上がって、カイに別れを告げると、カイは当然の如く口を尖らせて不平そうにしていた。去って行こうとするハルさんの手を、思わず私は手を伸ばして掴んでしまい、引き留めた。
 ハルさんはきょとんと目を丸くして振り返り、掴んだ私の手と私の顔を交互に見比べた。
 私はなんで掴んだのか、引き留めたのか、自分でもよく分かっていなかった。だが、引き留めたからには何か言わなくてはならない。引き留めた理由を。頭の中の脳細胞をあらん限り動員して考えを巡らせた。就活の面接で、1000万あったら何に使うか、という脈絡のない質問をされたときより、ハルさんの手を掴んでしまった今の問いの方が、ずっと答えが見つからない、難易度の高いものだった。
「連絡先、交換しませんか」
 言ってしまった後で、下手なナンパよりひどいな、と思った。
 ハルさんはふっと笑みを零して、「わたし男ですよ」と小首を傾げた。その仕草がもう女性にしか見えない。
「友だちになるのに、性別は関係ないですよ」
 私がそう言うと、ハルさんははっとした顔で、穴が空くほど私の顔を見つめた。そして「あなたは変わらない」と呟き、私が「え?」と訊き返すと、誤魔化すように笑顔を浮かべて首を振り、「なんでもないです」と答えた。
「もちろん、友だちになっていただけるなら、わたしに異論はないですよ」
 そう言って、連絡先を交換した。
 ハルさんはスマホを胸元で大事そうに抱え、「これでまた来年、お会いできますね」とはにかんで言った。
「そうですね。連絡とり合って、お互い日程を合わせましょうか」
 ええ、とハルさんは頷く。
「来年は、奥様に会わせてくださいね」
 すれ違いざまに耳元でそっとハルさんはそう言った。私はどきっとして「もちろん」と頷いていたが、ハルさんと妻を会わせて大丈夫だろうか、と一抹の不安を感じないでもないのだった。
「それじゃあ、また来年」
 ハルさんは手を振りながら去って行った。
 残された私とカイは、作りかけの砂の山を完成させて、カイが海で使うんだと大事にとって持ってきていた、お子様プレートの楊枝の国旗を頂上に立てた。イタリアの国旗は風に揺られていたが、ちょっと傾いで頂上に翻っていた。
「これねえ、ハルさんとぼくのお山」
 これまでは必ずママと、だった。それがハルさんに代わったということはこの短い時間でそれほど懐いたということだ。それとも、カイの成長の証なのだろうか。親から離れていくということは。
「ぼくね、大きくなったらハルさんと結婚する」
 そうだな、と言ってカイの頭をくしゃくしゃと撫でる。
 カイは今日の出来事を妻に報告するだろう。そうしたとき、どういう説明をしたらいいだろうか、と今から憂鬱になってしまう私なのだった。
「あ、蟹さんだー」
 カイが波打ち際を相変わらずうろうろしている蟹を見つけて歓声を上げたが、怖いらしく遠巻きに見て近づこうとはしなかった。
 私は波に押し負ける蟹を摘まみ上げると、海に入って行き、岩場まで進むとそこに蟹を下ろしてやった。
 運命を超える力が働いたって、いいじゃないかと、岩場の影に消えていく蟹を眺めながら、ぼんやりとハルさんの顔を思い浮かべていた。

〈了〉


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