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短編小説「補正」

 ぽりぽりと音が聞こえる。彼女は、ソファに座り、テレビを見ながら、お菓子を食べている。

僕は、彼女と一緒に選んだダイニングテーブルに座っていた。仕事終わりに同僚の飲み会に付き合わされたが、日付が回る前に帰ってこれた。

やっと解放された僕は、家に置いてあるウイスキーを少しだけ煽りながら、そんな光景を眺めていた。

君の顔は見えない。


ただ、右手からお菓子が口へ運ばれるその後ろ姿を見ている。声をかけても、その身体が振り向くことはない。

どんな顔をしていたっけ?どんな顔で、どんな声をしていたか、今の僕に知る方法はない。

君の白く長い手指、艷やかで長い髪、大きくみずみずしい瞳。君の全てが僕を救っていた。仕事のストレス、人間関係の悩み、僕の感じる苦しみは君によって昇華され、どこかへ散っていった。

あんなに近くで、あんなに多くの時間を過ごしてきたのに、今はもう思い出せない。思い出は、いつもきれいだ。見てた景色と見たかった景色が混ざり合い、形を変え、僕の中に残っている。

彼女は僕に光を照らしてくれた存在だった。あのときの僕の人生はなんて明るく光り輝いていただろう。

そんな尊い時間は面影もなく、今は別の類の時間が流れている。


過去を惜しみ、未来に期待し、その未来も過去になり、また惜しむ。この繰り返しが僕の人生なのだろうか。


 彼女は突然いなくなった。その日は彼女の誕生日だった。

彼女の好きなイタリアンを食べ、好きなワインを飲んだ。プレゼントも渡した。彼女が欲しいと言っていたネックレスだ。

彼女は嬉しそうに受け取ってくれた。僕にはそう見えた。夜は一緒にお風呂に入り、一緒に眠りにつく。何気ない幸せな時間を過ごした。

翌朝、目が覚めると彼女の姿はなかった。一緒に出かける約束もしていたのに。連絡をしても、既読はつかない。

幸い僕があげたプレゼントは持って帰っている。プレゼントが気に入らなかったわけではないようだ。そんなときにも僕に非はなかったと思い込みたい自分に嫌気が刺す。

何度考えても、彼女がいなくなった理由はわからなかった。その後も連絡がつかずに、半年が経った。理由を探そうにも、記憶は薄れてきて、分からなくなってきた。

彼女は、SNS上で1人の人間として僕の人生に登場してくる。その彼女は付き合ってた当初の僕が見ていた彼女とは別人で、こんなことするのか、こんなことが好きだったんだ、こんなこと考えるんだと新しい発見ばかりを見せられていた。

当時の僕は彼女のことを何も見えていなかったのかもしれない。

自分の中の枠組みの中でこの人はこういう人という決めつけをしていたのだと思う。そこには、僕の希望も含まれていたのだと思う。

自分の枠組みという檻に彼女を入れようとした自分を恥ずかしく思った。彼女の存在が自分の目の前からいなくなってからもなお、僕を苦しめてくる。


 ピコン。スマホが鳴る。僕はスマホに手を伸ばし、画面を覗き込む。思いがけない名前がスマホの画面に映り込んだ。

彼女からの連絡だ。

なんで今頃連絡が来たのか。検討もつかない。そのメッセージをすぐに開こうとしたが、その指が止まる。開けない。怖くて開くことができない。

今更何の連絡なのだろうか。良い連絡か、悪い連絡か。いなくなってから半年も経ち、僕の執着も記憶も薄れてきたのに、まだ何かを期待している。

そのたった一つの通知が僕の中の淡く情けなかった期待の輪郭をはっきりとさせる。

あのときの景色をまた取り戻せるだろうか。


唐突にこんな想いが湧き上がる。あのときの感情が本物だったのか確かめたい。僕のどこが違ったのか、あの日の僕のどこが悪かったのか、ただ答え合わせをしたい。

向こう数十年、君への答え合わせができないまま人生を過ごすくらいなら確かめたい。

ああ、美しい時間よ。また感じたい。もう一度だけでいい。君の存在を確かめるように、顔、体、その輪郭をなぞっていた毎日に。

自分が見ていたもの、それは本当にそこにあったのだろうか。疑えば疑うほど、分からなくなる。過去の出来事も彼女で知った感情も、自分の存在も。君にとっても、本物だったのか。本当に存在していたのか。確かめたい。


ウイスキーグラスの氷が溶け、カランと音がなる。


そんなことはできない。答えを知っても今の現状は変わらない。でも、確かめたい。


ウイスキーグラスの氷がまたカランと鳴る。


その音は、僕を嘲笑っているようだった。


 もうすぐだ。もうすぐ夜が深くなる。そうすれば、また、ゆっくりと鮮明に思い出すことができる。

自分が、自分と思い出が、自分と世界がやっと繋がる。やっと行ける、色濃い世界へ。



彼女は、まだぽりぽりとお菓子を食べている。



その輪郭は、さっきよりもぼやけている。



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