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YOASOBI生歌問題からみる現実体験とヴァーチャルの狭間

今日、目にしてびっくりしたのは、YOASOBIのライブが下手だったという声が上がっているというニュースだ。

さて私も少しばかりバンドサークルでライブしたりインディーズ音楽の情報サイトを作っていた身としてこのニュースに意義を唱えたいのだが、まず歌が上手い人間でも、ライブや会場設備、声量や肺活量といった環境によっては、普段のポテンシャルを引き出せないことがある。
特に大学のバンドサークルなどに入っていればよくあることだが、女性ボーカルのバンドはうまく声が出ず、普段はあんなに歌が上手いのに、ライブではほかの楽器に声が書き消されて、なんとか聞こえる声量にしたところ、綺麗な声や音にならない!ということはよくある。

個人的には、こういうのって普通高校とか大学のバンド活動で経験しない?
特にライブ行くような音楽好きだったら…

と思ったが、以前音楽需要の調査で取ったデータで段々音楽の認知や消費行動って変わってきてるんだよなというのを思いだした。

特に、Z世代のデジタルネイティブ世代はアナログよりもデジタルが身近にあり、midiの打ち込みやシンセサイザーといったデジタル音楽に我々の世代よりも馴染みが深く、そしてリアルとの境がわからなくなるようなバーチャル体験を非常に若いときから経験している。
一方、我々なんてFF7のクライシスコアとかps3のメタギアみたときなんて衝撃が走るような経験をまだしている世代。
ある意味では、バーチャルはバーチャル、リアルはリアルの区別がつく。
というのは、圧倒的にアナログで泥臭いリアルな現実に馴染みが深いからだ。

コロナの影響やfacebookのメタバース参入など、よりバーチャル空間やバーチャル体験への比重が高まるが、今後はよりリアルなグロさや醜さ、儚さや弱さ、アシンメトリーさやイビツさへの耐性がない若者が増えていくのだろうか?
Z世代の等身大で身の丈に合うような「そこそこ」でちょうどよい普通を羨望視する態度は、完璧への執拗なまでの執着とそこへの幻滅から来たものなのであろうか?
たしかに、であれば、弱者の方が賛美されるSDGsの高まりは必然なのかもしれない。
一方で、より差別や軽蔑といった風潮やエリートや優秀な人への失敗への風当たりは強くなっているように思う。
そりゃメッシも精神安定剤なしには、ピッチに立ち続けるのはしんどいわけだ。



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