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映画「トゥルーマン・ショー」を観て

7月16日、「トゥルーマン・ショー」という映画を観た。原題は「The Truman Show」。1998年のアメリカ映画で、ピーター・ウィアー監督の作品だ。

キャストは、トゥルーマン役のジム・キャリークリストフ役のエド・ハリスメリル役のローラ・リニー。マーロン役のノア・エメリッヒ。などである。

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あらすじは、
離島・シーヘブンで保険会社に勤めるトゥルーマンは明るい青年である。彼は生まれてから1度も島から出たことがない。それは子供の頃、父と一緒にヨットに乗って海へ出ていた時に父の警告を無視して船を進め、父を亡くしたことで水恐怖症を患ってしまったことが原因だった。

ある日、いつものように新聞を買ったあと、雑踏の中で1人のホームレスの老人が現れる。それは海に沈み亡くなったはずの父親だった。しかしその直後、老人は瞬く間に何者かに連れ去られてしまう。トゥルーマンはそのことを母に伝えるが、見間違えだと言って取り合ってもらえない。これをきっかけにトゥルーマンは周囲の様子を不審に感じ始める。

トゥルーマンは生まれた時から人生の全てを24時間撮影されており、『トゥルーマン・ショー』として世界220ヶ国で放送され続けていた。彼の住む“世界”は巨大なドーム状のセットで、太陽や月、星々も機械仕掛けの照明装置に過ぎず、雨や雷鳴などの気象も人為的な演出である。そして何より、トゥルーマン以外の人物は全て俳優であった。

妻との乾いた生活の一方で、トゥルーマンは学生時代に出会ったローレンという女性のことが忘れられないでいた。かつて、ローレンに惹かれたトゥルーマンが彼女をデートに誘うと、ローレンは虚構の世界に生きる彼を不憫に思って“世界”の全ては偽りであることを伝えようする。以降、トゥルーマンは彼女と会うことはなく、「島を出るのよ! 私を探して!」という言葉の通り、いつか島を出て彼女を探すことを夢見ていた。

そんな中で番組側のミスが重なり、周囲の異常さを確信したトゥルーマンは真実を知ろうと行動する。病院へ出勤した妻を追って手術の様子を覗き見ると、明らかに様子がおかしく素人にしか見えなった。すぐさま島から出ようとするが、不可解な理由やトラブルによりどうしても出発できない。自ら車を運転してなんとか町を出ても事故で通行止めになっていて先には進めない。一度は諦めようとするが、会ったこともない警官から「トゥルーマン」と呼ばれると、車から飛び出して通行止めを強行突破する。しかし、すぐに拘束されて家に連れ戻されてしまった。

いつもと変わらぬ様子を見せるトゥルーマンだが、夜は地下室で寝るようになっていた。その違和感に気付いた番組プロデューサーのクリストフがマーロンを向かわせると地下室にトゥルーマンの姿はなく、番組の放送は一時中断される。やがて見つかったトゥルーマンはヨットに乗って島から出ていた。クリストフは嵐を発生させて引き返すように仕向けるが、トゥルーマンは諦めずヨットに体を縛り付けて抵抗する。やがてヨットは壁の空に激突した。といった内容。

で、観終わっての感想。

プライバシーのない世界を、彼は生かされている

現代社会。
これだけ、プライバシーを重んじられる時代である。
この映画は、1998年の作品なので、今ほどプライバシーにはうるさくなかったのかもしれないが、それでもやはり、この時代にはありえないプライバシーのない世界。
その中で、生きている(生かされている)のが、このトゥルーマンである。

トゥルーマンの明るい性格が、悲しくなる

その、騙された世界の中で生きる、トゥルーマンの明るい性格が、なおさら鑑賞者側には悲しさとして伝わってくるのだ。
その姿を見事に演じているのが、トゥルーマン役のジム・キャリーだ。
まさに、うってつけの役回りだ。
トゥルーマンが、明るい表情を見せれば、見せるほど、物悲しい気持ちがじわじわと伝わってくるのだ。

視聴率のためなら人権も無視。現代社会の縮図なのかもしれない。

この映画の問題提起部分は、視聴率のためなら人権も無視して構わないといった、まさに現代社会の縮図を見せてくれるところだと思う。
その姿に関わっているのは、実は多くの人々(視聴者)なのである。
トゥルーマンの一挙手一投足に喜んだり、涙したり、悲しんだり・・・。
これが、作りて側の思うツボなのであろう。
視聴率(=お金)にとりつかれた悪魔たちに、手を貸しているのは、実は視聴者なのである。
これは、今現在(2022年)我々の周りでも起きていると、気づけるか、気づけないか、ここが分かれ道だとボクは思うのだ。

もしかしたら、我々も誰かのトゥルーマンなのかもしれない

そう、まさに我々も誰かにとってのトゥルーマンであるかもしれない。
だれかに踊らされ、だれかに演じさせられているかもしれないのだ。
そんなことさえ考えさせられる、作品はめったにない。
それが今回の「トゥルーマン・ショー」だと思うのだ。


ボクは、この作品を観たのは3回目である。

でも、この作品は、1回目より2回目、2回目より3回目、というふうに、観れば観るほど、作品の奥深さが見えてくるのだ。

個人的には、1度と言わず、2度3度観てもらいたい作品である。

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