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キスをするなら夢の中で|三島由紀夫『憂国』&原民喜『淡雪』読み比べ

今回は、文学のお話。

🌸三島由紀夫『憂国』を読んでみた


 ふとしたきっかけから、三島由紀夫『憂国』を読んでみることに。
 二・二六事件の外伝的短編で、信二と麗子という新婚の美男美女が愛を結び死を遂げる、というお話です。

 繊細な方のために申し添えると、かなり凄絶な描写のため胸が悪くなること必定…の、生々しい割腹シーンでした・・・苦手な方はお気をつけくださいね。・・・あっ、この記事は、描写はしないので、たぶん大丈夫だと思います…。
(私も苦手なのですが、この自刃には、自己や他者への"悪意"はなかったので、なんとか読み終えることができました。少々浮き足立ってしまったけれど...。悪意のない傷害は、どこか手術医の執刀に似てくるのね。)


 『憂国』は三島由紀夫のエッセンスをぎゅっと濃縮した代表作のひとつで、作者自身のお気に入りの一篇。

 彼の文体は最高の芸術品だ、というようなレビューを見かけたので、「そうだっけ…?」と、主には確認のために読み始めたのです。短編なら時間もかからないし。(大学生の頃に『仮面の告白』というタイトルに惹かれて読んだものの、狐につままれ、記憶にも残らなかった経歴あり。)

 個人的な感想としては、この作品の美学は私にはどうもしっくりこない...でした。非常に強烈かつ濃厚なので、お好きな方はすごくはまるのだろうと思いつつ…無駄のない文体は果断さを感じさせましたし、レトリックは質実剛健。短編だけに、隅々まで美意識を注ぎ込み、不要なものを捨象したのだろうというのが伝わってきます。様式美的な耽美なのかしら...とも。

 ですが、なにもかもが濃すぎて、長く留まっていられない感覚でした。

でもやっぱり、作者の個性が際立つから、文学っておもしろい。人にはそれぞれ個性="変なところ"があって、その愛すべき"変さ"加減を突き詰めた人が文豪になる、と思うのです。そしてそれらが、倒錯していたり屈折していたりする私の心の"隠れ家"に、"美"を媒介にして浸透...だから、文学は、シズル感たっぷり♡

 それからふと思い出したのが、原民喜さんも、夫婦の愛と死を書いていたなあ…ということ。
 あまりにも対照的なので、比較してみることに。

🌸『憂国』三島由紀夫

経過する時間:数日間
名前:信二/麗子
外見:誰もが驚嘆する美男美女
特徴:頑強、健康体、能動的、意志、規律
死因:自刃
死んだ理由:信念(友を討伐したくない&立派に散りたい/夫と連れ添いたい)
死んだ場所:自宅、床の間の掛け軸「至誠」の前
服装:軍服・白無垢という正装
時系列:信二→見届けた麗子が後追い
信じているもの:大義、絶対者
夫婦愛:濃密な情交。軍人の妻は夫に殉死すべきことを二人とも信じている(言葉に拠らない黙契であるところが象徴的)
イメージ:信念でつながる夫婦。肉体の愛と死。死=生涯で最も劇的なクライマックス。強烈な生の発現としての死。苦痛は歓喜と紙一重。死は"手札の最後の一枚"として、自分の管理下にある。

❄️『淡雪』原民喜

経過する時間:一ヶ月強
名前:潔/露子
外見:記述なし(=重視していない)
特徴:病弱、寄る辺なさ、受動的、淋しさ、夢想、諦観
死因:病死(おそらく結核)
死んだ理由:病気に逆らえず
死んだ場所:病院
服装:記述なし
時系列:潔→一年後に露子
夫婦愛:夢の中で接吻(象徴的に、病の感染)
信じているもの:記述なし
イメージ:精神の愛と死。病でつながる夫婦。死=幻想/清らかさ。死んでいく瞬間は描かれない(潔の死は過去の記憶、露子の死は暗示のみ)。死は与えられるもの。



 こうやって比較すると、陽と陰の極致ほどに正反対で、じつに興味深いです。

🌸共通項


 夫婦愛、つまり二人だけの世界を描いています。そしてどちらも、死を目前に、後を追う妻が夫の核/内面にあったものを体得したというところで、ある種の成就/納得を得ています。

懐剣を帯から抜き、じっと澄明な刃を眺め、舌をあてた。磨かれた鋼はやや甘い味がした。
 麗子は遅疑しなかった。 さっきあれほど死んでゆく良人と自分を隔てた苦痛が、今度は自分のものになると思うと、良人のすでに領有している世界に加わることの喜びがあるだけである。苦しんでいる良人の顔には、はじめて見る何か不可解なものがあった。今度は自分がその謎を解くのである。麗子は良人の信じた大義の本当の苦味と甘味を、今こそ自分も味わえるという気がする。今まで良人を通じて辛うじて味わってきたものを、今度はまぎれもない自分の舌で味わうのである。

三島由紀夫『憂国』


 しかし、潔さん、この頃私はやっと当時のあなたの気持が解って来たのです。潔さん、あなたの病気が今は私のものとなった様に、あなたの気持も今は私のものとなりました。...(略)...
あなたの淋しい霊魂には、肉体が刻々と蝕まれて行くことが、却って不思議な美しい誘惑ではなかったのでせうか。さうして、この誘惑を到頭あなたは私にもお頒ちになりました。ああ、何と云ふ恐しい誘惑でせう。しかも私はもう動けないのです。あなたは優しく、優しく手を伸べて私を抱かうとするのですか。

原民喜『淡雪』



🌸文学における肉体と精神


 執筆は精神的な活動。とはいえ、精神って実際は肉体の影響を強く受けています。これらの2作品は、作者の健康度、頑強さの度合いによって、きれいに線引きできるのかもしれません。(作品の分量としても、憂国>淡雪)

 私もそんなに身体が強い方ではないので(周りの人に「大丈夫ですか?」とよく心配されます。ちなみに、大丈夫です。)、そのあたりで、(思想やイデオロギー以前に)三島由紀夫の美意識にチューニングが合わないのかも。
 タイトルからして『淡雪』を読みたいし、名前ひとつとっても、信二と麗子より、潔と露子のほうに魅かれます。


 その人それぞれの好きな作家、感覚の合う作家を、健康度や屈強さ、肉体的特性で分類したら、意外に相関性が見られるかも…なんて、少々乱暴な議論・・・

🌸美について少し


 "輝かしさ"と"透き通る美しさ"が共存できないということを感じるのは、写真を撮っているとき。
 冬の混じりけのない小川は中までよく見えるのに、春になると水面の燦めきのため、水中を透かし見ることはできなくなります。
 そこで、偏光フィルターを装着して反射光をカットすると、水の奥が見えてくる。

 私にとっては、三島由紀夫の世界観は、水面の輝きが強すぎて、はじき出されるような感覚なのかもしれません。

 戦後文学の代表と呼ばれた三島由紀夫。対して、原民喜さんは、"最も美しい散文家のひとり"と呼ばれたりもしています。甲乙はもちろんつけられるものではありませんから留保しておくとして。それぞれの性質が、華麗なる建造物と、透き通る結晶のように違っているということは言っておきたいと思うのです。

 私は原民喜さん贔屓の人間で、詩などを読んでいると、時に、"この世のものとは思えない"美しさだと感じることがあります。
 それは(おそらく三島由紀夫の文体がそうであるように)痺れたり酔うような感覚ではなくて、心の奥にすっと沁み入ってきて、波を鎮める美しさなのです。

 原民喜さんって、星の汀史上最高に"透過性"なのに、半分が原爆の惨禍でできているから、触れるに触れられず、撞着しちゃう困ったお方ではあります...
 この上なく美しいものと、強烈に怖ろしいものが混在しているから、ダブルバインドにかけられてしまうのよね...。


🌸三島由紀夫&原民喜 両氏の比較

 知っている範囲で...なので、不充分な比較になりますが・・・

  • 原民喜さん1905年-1951年

  • 三島由紀夫さん1925年-1970年


《共通点》
 生来の純粋無垢。戦争体験にまつわる葛藤。社会への不適合感。「生き残ってしまった」後ろめたさ(=誠実さ)。一作一作を遺作/遺書のつもりで書いていたこと。45歳で自ら死を選んだところ。

《相違点》
 内心の思いはもちろんいろいろあったでしょうが、大雑把に言うと戦争を称揚する側にいたらしい三島由紀夫さん。(そういう作家は多かったのでしょう。)
 対して、戦地の兵士を激励する寄稿文集に、あえて日常の穏やかな一コマを書いて寄せた逸話を持つ原民喜さん。"お国のために美しく散れ"のような言説が踊る社会情勢の中で、相当、勇気が要ったと思う。"非暴力不服従"みたいな方法論ですね。

 一度は、戦後の価値転換に順応しようともがいた三島由紀夫さん。はじめから生き延びるつもりのなかった原民喜さん。

 社会への働きかけをした三島由紀夫さん。記録に徹した原民喜さん。

 自らの「信ずるもの」を選び取った三島由紀夫さん("大義"の"苦味"と"甘味"を知った上で)。人間が作った思想や宗教を様々に受けながらも、どれかひとつを選択することのなかった原民喜さん。

 その死は、自決という能動的なものと、轢死という受動的なもの...そこでもまた正反対であり、痛ましいながら"その人らしい"結末のようにも思えてきます。

 共通項もありつつ、生き方も作品も大きく違っていて、そんなところも興味深い。

 太陽と月が対極にありながら相関関係にあるように、戦争がこのふたりをもまた結び合わせているのかもしれません。(そして私は"地球"からふたりを見比べる。)


🌸終わりに


 半年ほど前、恋愛論のような(脳科学系の)本を読んでいたときに感銘を受けたこと。
 それは、本来、生物学的に言えば、生殖行動は子孫を残すという究極の目的のために行われるものなのに、人間(及びごく少数の哺乳類)は、それを目的としない愛の交わりを持つめずらしい生き物だ、ということ。さらに、そういった性愛行動は、故意であれ結果的にであれ、子孫を残さないがゆえに、儚さや美しさという別の色彩を帯び始める、というのです。

 たとえば『源氏物語』の光る君が、あちこちで恋人を何人もつくっているのは(現代の感覚では)ふしだらとも言える半面、子どもは三人しか生まれていないという設定によって、恋愛遍歴こそが"諸行無常"の通奏低音になっている、というのです。(たしかに、光る君の典雅な裳裾のあたりに「パパ〜♡」ってお子さまがうじゃうじゃしていたら、「血筋が栄えて良かったですね」という感想になるかも...)

 それでいくと、『憂国』も『淡雪』も、プラトニックかどうかに拘わらず、どちらも子孫を残すことはできない愛の営みですから、"儚さの美"を、どちらも核の部分に抱えているわけですね。

 それにしても──。
 いったい、夢の中でキスをするのはプラトニックなのでしょうか?
 抱き合う恋人を読んだり書いたりするのはプラトニックなのでしょうか?
 ──自分でもそれらを書くことのある私は、たまに腕を組んで考えてしまいます。
 "現実"と"虚構"の作用・反作用は、尽きせぬ謎を投げかける。

 それでもあえて言っておきましょうか。
「キスをするなら夢の中で」と──。





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