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レズビアン・カップルに育てられた娘が父を想うことは”差別”なのか

私に命を与えてくれた父は、どんな人?父は私の存在を知っているの?父は私を愛してくれているの?――匿名の精子ドナーの人工受精による出産が増加する中、このような葛藤に苦しむ子どもたちが増えています。自然な妊娠が不可能な同性婚の家庭では、このようなケースが少なくありません。

オーストラリアでレズビアンのカップルに育てられた女性、ミリー・フォンタナのスピーチを関連資料としてご紹介します ( 以下、和訳。動画へのリンクは文末)。

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虹の向こう側

2015年9月23日

本日の集まりのために、こんなにたくさんの人が集まってくださるなんて、とても驚いています。私の名前はミリー・フォンタナです。23歳です。私は精子提供を受けたレズビアン・カップルの家庭で生まれた子どもです。今日、私は3人の親の応援を受けて、ここに立っています。

私のこの証は――こう話しても差し支えないと思いますが、あまり「耳にしない」類のものだと思います。なぜなら、誰も「虹の向こう側」の話なんて聞きたくないからです。「向こう側」――社会から放っておかれている人たち、幸福に育つことができない人たち、本来あるべき家族の姿に異論を唱える環境で育つ人たちの側の話など。

成長していく過程で、私は常に父親を求めていました。私には「父親」が欠けているんだということを、自分の中で強く感じていました。父親とは何かをはっきりと口で説明できる年齢に達する前から。私は自分が両親を愛していることは分かっていましたが、自分の内に欠けたものが何であるのかが分かりませんでした。

学校に上がった頃、他の友達の家族を見て、そしてその子たちと父親との愛のきずなを見て、私は自分が大切なものを失っていたことに気がつきました。小学生の頃、私はずっと両親から嘘をつかれてきました。私には父親はいない、もしくは父親が誰なのか知らない、と言われ続けてきました。私は、そのせいで自分のアイデンティティを確立するのに非常に苦労しました。私の感情や行動はかなり不安定になり、私は精神的にかなり苦しみました。

私は無神論者として育てられた人として、ここに立っています。私はどの宗教にも属していません。でも私は今、クリスチャンたちと共に立っています。なぜなら、この「(同性婚の是非の)議論」の中で、クリスチャンたちだけが、子どもへの影響について関心を寄せてくださるからです。今のところ、クリスチャンたちだけが私のような子どもの話に光を当ててくださるのです。LGBT推進者は、私の話など聞きたいと思ってもくれません。だって、”Love is Love(愛は愛※)”ですものね? 彼らにとって、私たちは「存在していない」ことになっているのです。(訳注※ LGBT運動のスローガン)

私は大きくなるにつれ、鏡を見ながらこう考えるようになりました。「私のこの緑の目は、どこから来たんだろう?」「私のこの性格や能力は、どこから来たんだろう?」――両親のどちらも、これらを持っていませんでした。答えは簡単です。私は、それらを父から譲り受けたのです。

でも現実的には、私はただ「父親」――彼らはただの「精子ドナー」と呼びたいようですが――だけを失っていたわけではありませんでした。私には叔父がいました。叔母もいたし、祖母もいたし、たくさんの優しいいとこ達もいたのです。私のアイデンティティの「どの部分」を私に伝えるべきか、両親が選んだ時、両親は私から「何か」を奪ったのです。

他の子たちが鏡を見て、自分の中に欠けている部分と「和解」し、お母さん、お父さんが大好きと言えるのに対して、私にはそれができませんでした。なぜなら、私のアイデンティティの一部を勝手に「取捨選択」するなんて、私の両親は一体何者なんだろうか? と考えざるを得なかったからです。

11歳でやっと父親に会うことができた時――私はおそらくこの時くらいしか、「安定した子ども」ではなかったと思います――私はその時に初めて「自分が誰か」を理解することができました。父の目を見て、「私が探していた欠片はこれだったのだ」と気がついたのです。

別に、「お父さんがいたらいいな」と理想化していたからではありません。私はやっと自分自身の存在に「顔」をもつことができたからです。私の存在に対する「責任」を平等に負う人間を目にすることができたからです。私は、この(父という)男性のうちに自分のアイデンティティを確立することができました。もし父に会うことができなかったなら、私はきっと、今日こうして皆さんとここに一緒にいることはなかったでしょう。「父が私の人生にいない」という事実は、小さかった頃から私に壊滅的な悪影響をもたらし、私の成長を阻みました。

ここで私は、真の「平等」についてお話したいと思います。LGBT運動推進派から、よく「平等」という言葉を聞きますが、正直、彼らの「平等」の定義は一体なんなんだろうと思います。私にとって「平等」とは、「真実を教えてもらう」ことでした。私の「まるごと」を尊重してもらうことでした――両親が私に伝えてもいい、と決めた事実だけではなく。「平等」とは、自分の遺伝子がつながる家族の両方を見ることができる、ということでした。自分自身が何者であるかを理解するために。

「平等」は、こういうことは言いません――ボランティア参加型の「同性愛者とその子どもの調査(※脚注)」の結果に「良好な傾向を認めることができた」ので、それを全ての人に当てはめよう、と。そんなの、全く現実的ではありません。

この3月に、あるLGBT推進派からこんな嘘を聞きました。「子どもは自分の親が誰であろうと気にしない。男性と女性を置き換えることは可能だ」と。私は、これこそが「ジェンダー差別」ではないかと感じます。男性と女性は、相互補完性をもって子育てにあたります。だから双方は、同じく正当に尊重されるべきなのです。

「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」についてのゲイ・ロビー活動家の語り口はつくづく変だと思っています。ゲイの友人たちが来て、私に教えてくれました。彼らが「私は、子どもは父母がいる家庭で育つことが理想的だと思う」という意見を表明したところ、「お前はホモフォビック(同性愛嫌悪主義者)だ」と他のゲイたちに言われたんだそうです。なんてバカバカしい!

では私は、ホモフォビックだったのでしょうか? 鏡を見て「私のお父さんはどこにいるの?」と考えていた私は。私は、ホモフォビックだったのでしょうか? 愛する両親に「私が誰なのか教えてほしい」と泣きすがった時。違いますよね? 私は自分の3人の親を平等に愛しています。

ホモフォビアというのは、ただある行動への反感(嫌悪感・恐怖感)から来るものです。それは意味があって存在していたものです。社会的には、そのフェーズを超えたとは思いますが。

私はただ、ホモフォビアを「人種差別」と同等に並べることに強く反対します。ある人が部屋に入ってきたら、誰もがその人の人種をすぐに察知できるでしょう。自分との違いを見ることができるからです。でも誰かの性的指向なんて見ただけじゃ分かりません。性的指向は流動的なものですから、基準とすべき固定されたアイデンティティではないのです。性的指向は変わることがあります。状況によっては。個人の選択の場合もあります。だから人種差別と同等ではないのです。だから私は、「この問題について話すなんて、お前は人種差別主義者と同じことをしている」というコメントに遺憾を覚えます。

なぜ私たちの政府は誠実さに基づかない、このアジェンダを推し進めようとしているのでしょうか? 現実的に見れば、どの同性愛関係でも、子どもを得るには必ず「第三者」が必要ですよね? どの場合においても第三者が必要なのです。なぜこの社会は、この事実を無視しようとするのでしょうか? 私は二人の女性から生まれてきたわけではありません。3人の人間が、私を「この世に迎え入れること」を選んだのです。一体なぜこの事実を無視しようとするのでしょう? 私には「科学」が「大人の欲求」に取って替えられたように見えます。

カナダの出生証明書には「法的な親」の名前が記載されます。生物学的な親ではなく。出生証明書は、今や子どもの系譜を記録する文書ではなく、「意思表示の文書」になったようです。大人が「私が、この子どもを世話します」と表明するための。この文書は、子どもになんの情報を与えるというのでしょう? 現実に即していません。「子育ての意思表示」をするための出生証明書なんて。出生証明書は、情報と家族の系譜を記録するものです。

ある時、母にこう聞かれたことがあります。「ミリー、もし私とパートナーが結婚できたとしたら、どう思う? みんなと同じような安定した家庭環境を手に入れることができたら、どう思う?」と。私はシンプルに答えました。というより、質問で返しました。

「私のカウンセラーが、『父親不在』という私の根底にある傷を治療する時、私をどのように扱うようになると思う? 『父親不在』を認めることが『差別』になるような社会になれば、どの精神科医も法に触れることに怯えるようになるでしょう。そんな状況下で、私はどんな治療を受けられると思う?」母は黙ってしまいました。誰もこういうことを考えてはくれないのです。そして「同性婚」に突っ走るのです。

オバマ大統領が「他の人たちは皆、進化するべきだ」と言ったのは面白いと思いました。私が知る限り、「進化」には、もっと小さいステップがあるからです。それが起こるまで十年よりもっとかかりますよね。そしてそれは、私たち全員を巻き込むものです。「進化」は、一つの政治的アジェンダによって成立するものではありません。このアジェンダは、”LGBT当事者の半分“ですら、黙らせています。「同性婚」を推し進めているのは、過激な少数派だと私は感じています。彼らは「性差/ジェンダー」すら絶滅させようとしているのです。(同性婚は)「ジェンダー平等」のための投球ではないと思います。彼らは「ジェンダーそのもの」を廃止しようとしているように私は感じています。 

この社会が、私のような子どもたち――親が勝手に自分の出自の事実の一部を隠すことはおかしいと考えている子どもたちをこの議論に参加させるようになるまでは――お母さんやお父さんがいない家庭で育てられた子どもたちすべてが、この議論に含められるようにならないのであれば――この議論が、私と同じ考えをもつ子どもたちが意見を公に表明する度に、私たちを誹謗中傷することを止めないのであれば――私は「同性婚」は認められるべきではないと思います。

「進化」は、少しずつ起こるものですよね? 私は沈黙させられるわけにはいきません。私がどのように「感じるべき」なのかを、私に勝手に押しつけてくる人たちによって。「父親がほしいと言うなんてお前は悪い人間だ」とか、「父親がほしかったなんて、お母さんたちへの愛情が欠けているんじゃないか」とか――。こんなのおかしいです。私は支持しません。

本日は、お集りくださりありがとうございました。

動画へのリンク: The other side of the rainbow - Millie Fontana's story--Australian Christian Lobby

※脚注 ①養育者の性別は子どもの発達に何ら影響しないと主張する学術論文の例:バージニア大学のシャーロット・パターソン氏による調査(以下、英文、5~22ページ)

Charlotte Patterson, "Lesbian and Gay Parents and Their Children: Summary of Research Findings,” Lesbian and Gay Parenting, American Psychological Association. 2005.

②上記のような調査の手法が不十分だったとして、反対の結果を導き出した論文の例:米国カトリック大学のドナルド・サリンズ氏による調査(以下、英文)

Donald Sullins, "Emotional Problems among Children with Same-Sex Parents: Difference by Definition", British Journal of Education, Society and Behavioural Science 7(2):99-120, 2015.


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