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自分の"選択"は、自分のもの


一生懸命やって得た自分の選択は、自分のものです。

誰にとっても"完璧な選択"なんて無くて、自分の選択を好まない誰かはきっと居る。

多数の人にとっては、すごく良い選択に見ても、誰かにとってみれば悪に見えるのかもしれない。もちろん法や道理とか倫理、論理に外れるような選択肢には議論の余地はないでしょうが。


だけど、色々な選択があるからこそ、人ぞれぞれの”選択”は尊重されるべきだと思うし、”完璧じゃない”って否定される必要なんてないと思うわけです。

選択が人それぞれ違うのは、"求めるプラス要素"と、"許容できるマイナス要素"が人それぞれ異なるから

でも人それぞれ違うとなると、否定がついて回る。笑


「なんで?なんで?攻撃」は時に人を傷つける

人によってバックグラウンドは様々で、例えバックグラウンドが似てても、当然別の人間なんだから違う考え方を持つ。

人それぞれなんだから、否定したり、自らの選択を人に押し付けるなんておかしいんじゃないか?と思います。


もちろん、互いの選択を共有して議論することは、新しい考えをもらえるチャンスにもなり得るので有効活用するべきだと思います。

でも選択の違いがあると「なんで?なんで?」攻撃を結構受けやすい。笑

かといって、相手の気持ちが純粋な上での疑問なら、質問されることで自分の考えが深まったり、気づきを得ることもあるから、無碍になんで?なんで?攻撃を避けたり、気分害してはいけない。


でもでも!悪気というか否定的ななんで?なんで?は相手のモチベーションを下げるから好きじゃない!笑

一生懸命自分が練り上げた選択をクシャッ!ってされるのは、精神的ダメージがかなり大きい。笑

結局どんなリターンとリスクを好むかは人それぞれであって、だから選択が異なる。

好み別なのが選択というものであって、完璧な選択なんて逆に言えばあるのか?


"求めるリターン"と"許容できるリスク"は人それぞれ

人は選択をする際に、「何を求めて、何を嫌うか」整理した上で決定していっていると思います。

そしてそのリターンとリスクの考え方は自分自身の判断軸に沿っていて、自分の選択を全ての人から良いと思ってもらうことは無いでしょうよ、と。


私、最近DMM英会話を利用してるんですが

この間セルビア出身の先生とのレッスンの中で

先生「なんで英語勉強してるの?アメリカに行きたいの?」
っていうところから、ニューヨークに住みたいって話をしたわけですよ。

そうしたら
先生「えぇ、なんでみんなニューヨークに住みたがるの?家賃高いし、忙しないし、問題も結構あるじゃん?なんで?」(批判的に聞こえるけど、先生には全然悪気はなくシンプルに疑問として聞かれてるパターンだから大丈夫)

私「行ったら大変なことは増えるのかもしれないけど、もっとダイバーシティで気付きたいこと、知りたいこともあるし大変でも行きたいし、理由は色々あるよ」

先生「へぇー大変なところに飛び込みたいっていうのはすごいね。みんな嫌がるじゃん。日本はいい国だしさ」

私「日本に来たことあるの?」

先生「もちろんあるよ、日本大好きで将来住みたいと思って考えてるよ。治安もいいし食べ物もいいし、大好きなアニメもあるし」

……

どうでしょう。
悪い意味でなく、考え方が全然違いました。

リターンについて、私:人にフォーカス、先生:文化にフォーカス

リスクについて、同様に海外を求めるにしても、私:刺激を求めて、先生:平和的に求めている

大まかに分けるとこんな感じの違いかと思いますが、
先生と私の出身とかバックグラウンドの違いから生まれる考えの違いもあるの思うけど、単純に"別の人間だから"違うってことだとも思います。


「あの人やり方とか選択は自分には出来ないなー」って思ったりことってあると思うんですが、よく考えたら誰かにとっては自分の選択もリスクを取った選択に見えるのかもしれない。

要はリターンとリスクの捉え方は人それぞれだし、選択の自由があるんだから人の選択を批判したり、自分の意見こそ正しい!って押し付けがましいことは抜きにしませんか?という思いです。


だって、どんな選択であろうが万人にとって完璧なことはないと思うんです。

完璧なものだらけなら、きっと「人それぞれ」とはいかずに選択の幅はすごーーく限られて、なんか面白くなさそうじゃないですか。

選択の幅を保たせるためにも、人の選択を勝手に批判したり、踏み潰したりしてはいかん!


100 か0以外だってあり得る

完璧なものはないという観点からいくと、最近よく思うのが

一部ダメだったら、他も全部ダメってなんか本当にそうか?ということです。

本当に100ゼロの世界でいいのかしら?と思うんです。


SNSの存在により、今まで以上に自分の動きが第三者に晒される(または自ら晒す)世界になった。

そんな世界の中で、少しでもダメ(ツッコミどころ)があると、なんか過度に批判をされて、決して全部がダメなわけではないだろうに、なぜか”全然ダメ”扱いをされてしまう

うーん、なんかこれって厳しすぎるような。

いい部分は採択するとか、何もバッサリ切らなくてもいいと思うんだけどなあ。

”全然ダメ”認証してしまうと、他に何も生かせない。全部が全部悪いわけではないなら、生かさないと将来に繋がらず機会損失になるかもしれないな、と。


100ゼロ的な考え方よりも、ちゃんと認めるところは認める、っていう考えの方が納得感があると思うわけです。

批判ばかりでなく、素直に評価するとか認めてあげるという気持ちの持ち方は忘れないようにしたいなと。



自分の選択を大切に

自分の選択を持つというのは大変なことだと思います。


まず選択を持つこと自体、泥沼に両手を突っ込みながら手にしなきゃいけないし。(楽な選択もあるだろうけどね)

誰かからなんで?なんで?攻撃を受けて、批判されたり、傷つけられたりする可能性もある。

比較しやすい時代だからこそ誰かの選択と比べると、自分の選択がしょぼく見えたり。

たくさんの選択があるからこそ、「本当にこれでいいんだろうか?」と悩んだり


私は今こそ、ニューヨークに住もうとか、ブランディングの仕事に就こう、とか自分の選択を持てているけど、

数年前までは全然自分の納得いく選択が見つからなくて、選択がないことに焦りまくって、それはそれで大変だったと思います。


選択を持つのは勇気も苦労もいる。もちろん実現するのだって一苦労。

それでも選択をするからこそ、人生は前に進むし何かに一生懸命になれる。充実するんじゃないかと思います

特定の誰かとか、多数の人からいいね!をもらえる選択を望むだけじゃなくて、本当に自分が求める選択を探し求めることは素晴らしいと思います。

そういった選択ってとても大切なものだから、ぜひお互いを大切にして尊重していきたい。良い意味でインスパイアーし合えるものにしたいです。


批判に負けず、自分の選択を大切に。

自分の選択は誰のものでもなく、自分のもの。

選択を持てている自分、探して奮闘している自分を褒めてあげよう、今日は。


今日も読んでくださってありがとうございます!!


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