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小さな物語。

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掌編・短編集。
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#恋愛小説

【短編小説】昨日、きみは僕を捨てた

【短編小説】昨日、きみは僕を捨てた

 もう来ないで、と言われたとき、どうして僕は抗う言葉をなにひとつ言えなかったのだろう。閉じた玄関ドアは鉄のような音を立てて、彼女の世界から僕をしめだした。しばらく僕は黒い玄関をうつろに見つめて——実際は玄関ドアなど見てやいなかった。彼女の顔、僕を心底けがらわしいと厭う表情を、自傷行為のように繰り返しまなうらに描いた。 

 それからどうやって自分が家にたどりつけたのか、思いだせない。ただ、温かい夜

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【短編小説】待っている人

【短編小説】待っている人

 十歳も年下の男の子と遊んでいる、と母が聞いたら、はしたない、と言うだろうか。遊んでいるとはいえ、世の人が想像するような、淫らな関係ではない。彼の最寄り駅で待ち合わせて、一緒にハンバーガーやパスタを食べて、公園で最近読んだ本の話をして――、それで終了。はじめは金銭のやりとりがあったが、いずれ陽はそれを拒むようになった。「なんか、これ負担」わたしが差し出した一万円札を返し、ジーンズのポケットに手を入

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【短編小説】夜を越える

【短編小説】夜を越える

 その日の夜の歩道橋は、夏の雨に濡れてちらちらと光っていて、手をかけた手すりは生温かく湿って嫌な感じがした。下に流れる車を見るのも臆病風に吹かれそうで、僕は代わりに空を見上げた。しろっぽい夜のなかから、流星のような雨が僕の顔を打った。息苦しさで、僕は喉が渇いたような痛みを感じ、雨を呑み込むように口をあーっと大きく開けた。
 夜なんか越えられねぇよ。
 ひとり呟く僕の傍を、誰も通る人はいない。途中ま

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わたしの、優しい悪魔【後編】

前回のお話はこちら……↓

 いったい、雪人のほんとうの顔はどれなのだろう。

 夕飯を作りながら、わたしはときおり雪人のことを思い出し、ぼんやりとしていた。裏表のある人だとは思う。けど、彼の本心が何なのかがよくわからない。
(わたしのスマホに自分の番号を登録したのって、心配だったから?)
 深読みし過ぎだと自分でも思うけど、そう信じたくもあった。
 ちくわとピーマンのきんぴら、豚肉の塩ダレ焼き、

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わたしの、優しい悪魔【前編】

わたしの、優しい悪魔【前編】

 その日のバス停には、誰もいなかった。わたしと彼以外には。

 キャンパスから出たら鼻の奥が、つん、と痛くなって、手のひらで鼻を覆うと雪が指先についた。12月の初めに降った雪はまだ小さく、少し湿り気を帯びたそれは、石畳の階段に音もなく吸い込まれていく。わたしは剥き出しの手に、はあ、と温かい息を吐きかけながら、正門を抜け、目の前にバスが通り過ぎて行くのを、あ、と間抜けにも口を開いて見送った。そして通

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別れの音

別れの音

 もうやめよう、こんな会いかたは。
 こらえきれずそう初めにいったのは、わたしではなく和夫のほうだった。和夫は、学生みたいな幼い顔をめいっぱいしわくちゃにして、苦しそうにいうのだった。もうやめよう、俺たちもうそんな仲でもないんだし。
 それでもわたしは和夫のシャツの裾をひっぱり、やめたくはない、などというのだ。自分でもそれは、ただのわがままだとわかっている。とっくに恋人同士でもなくなったわたしたち

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やすらかに眠りなさい

やすらかに眠りなさい

 離さないで、と浩一はいった。少し怯えた声で、離さないで、と強くいった。
 眠る間際になると、いつも浩一は不安がった。私がベッドから離れようとすると、浩一はびくりと身体をふるわせて、私の腕を引っ張った。どこにいくの? 行為のあとだから、なおさら、浩一は不安になるらしかった。
 どこにもいかないよ、ただ水を飲むだけ。そう答えて、ようやく浩一の顔が少し緩んだ。すぐ戻ってきてね、と浩一はいう。でもその声

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溺れていたい

溺れていたい

溺れていたい、と直樹君は言った。京子さんと一緒なら、溺死しても構わないとも。

 何寝ぼけたこと言ってんだか。わたしは呆れながらそう返した。けれども、内心まんざらでもなかった。

 直樹君とは一日おきに会っている。平日の昼間にベーグルの美味しいカフェで軽く食事をして、安いホテルで抱き合う。直樹君の若い身体は存分に水を含んでいて、瓜の匂いがする。触り飽きることがない。会う度に直樹君の身体は成長してい

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衝動

衝動

とてつもない衝動だった。
あなたの頬を叩いたわたしの右手には、いつまでも熱が残っていた。
叩かれた後のあなたの瞳の動きをよく覚えている。
暫く敷き詰められたタイルの床に視線を落として、そしてゆっくりとそれを上げた。わたしの方にと。あなたの瞳には弁解の色も何も残っていなかった。ただ、わたしを哀れむかのようにじっと見つめていた。

窓の外は暮れて、深い青色に染まっていた。わたしはあなたの視線に耐えられ

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