【短編小説】夜を越える
その日の夜の歩道橋は、夏の雨に濡れてちらちらと光っていて、手をかけた手すりは生温かく湿って嫌な感じがした。下に流れる車を見るのも臆病風に吹かれそうで、僕は代わりに空を見上げた。しろっぽい夜のなかから、流星のような雨が僕の顔を打った。息苦しさで、僕は喉が渇いたような痛みを感じ、雨を呑み込むように口をあーっと大きく開けた。
夜なんか越えられねぇよ。
ひとり呟く僕の傍を、誰も通る人はいない。途中まで差していた傘は、足もとで転がり、傘の柄が僕の脚を突く。もちろん、僕は傘を拾いあげることはしない。なぜなら、次は手すりに足をかけて、歩道橋から飛び降りるつもりだからだ。
甘えているな、自分。努力できないから、逃げるなんてさ。
今度は声にならない呟きだ。いつも父親に兄と比較され、要領の悪さ、頭の悪さを、言われてきた。中学も高校も受験に失敗し、かろうじて私立のエスカレーター式に進学できる学校に入学できたものの、父親の評価は得られなかった。これまで僕にかけた教育費をExcelで計算して出して、見せられたことがある。お前は恥を感じないのか? ここまで俺が金かけてやったのに、誠意が見られない。せめて難関私大にでも入って孝行しろ――、そこまで言われていたのに、僕は父親の課題をクリアできなかった。つまり、大学受験にも失敗して浪人だ。
でも、今はすべてを投げ出したい気持ちだ。
努力することに何の意味がある? 少なくとも、努力しても伸びない学習能力の低い人間が、時間をかけて勉強することに何の意味があるのだ。受験では相対的に学力を判断され、僕はいつもFラン学生の枠に入れられる。そう、あれだ。泣きながら石を積んで、ようやくひとつの山が完成する頃に、鬼に金棒で崩されるような無力感、虚しさ。
生きることへのコストを考えると、歩道橋から落ちてリセットするほうが、合理的に思える。だけどなぜか、僕の手や足は震え、その次の段階に行けない。未練なんてないのに、予測できる身体的な苦痛が、圧倒的に怖いのだ。
勇気を出せ。ここで身を投げ出せば、父も情けはしないだろうが、考えてくれるだろう。どうして俺が、このようなバカなことをしたのか、と。
空を見上げながら、靴を地面から離したとき、傘がふわりと浮かんだ。
一瞬、風のしわざかと思ったが、
「君、何しようとしているの?」
黒いパーカーを着た、ボブヘアの女子が、僕の傘を拾いあげていた。なぜか左目に眼帯をしていて、どうやら雨が降り注いでいるのに傘を持っていないようだ。
「……何も」僕は彼女から顔を背けた。
「傘、差さないの?」
「……それはいらない。捨てようと思っていたし。よかったら使えば」
長い間が空く。捨てようと思っていたし、に引っかかったのかもしれない。女子がいる前で飛び降りようとして同情を引くこともできるが、それはさすがにダサい。早く傘を持って帰ってほしい。
「ありがとう。でもわたし、濡れているほうが好きだから」
「あ、そう。でもあげるよ。いらないなら道端に捨てていいから」
それを遮るように「確認なんだけど、飛び降りようとしていた?」聞かれる。漫画で何度か出会うシーンだが、対処法が思いつかない。確か漫画では、
「……関係ないだろ」と男子側が言うのだったか。でもこの言葉はただのつなぎで、女子からまた聞かれる。
「あー、飛び降りようと考えたんだ。なんで?」
キレそうだ。実際、舌打ちをした。父親との関係について、自分の無能さについて――これらをただの通りすがりの、変な眼帯をした女子に語る労力を払いたくない。ここは無言を貫くことに決めた。なんで? などと相手の心情を考慮せず、簡単に聞ける女子は、きっと僕に寄り添う思いやりや忍耐力などないだろう。
「話せないんだ」
感情を込めずに、頭に浮かんだことをぽっと言うところが、なんとなく幼いな。僕の前髪から滴が垂れ、それが目に入ってしばらく痛みで瞼を閉じた。目を閉じるほうが、夜よりも暗かった。女子が近づく気配がしたが、僕はそれには構わなかった。しかし、彼女の温度が頬のあたりで感じ、ふいに目を開けるとキスをされた。
人生で初めてのキスだった。
「明日も生きていたら、またするよ。傘、ありがとう」
それから彼女は傘を差して、歩道橋から降りていく。僕は不覚にも明日を生きる気力が湧いてきた。
〇
あまりにも唐突に訪れた、人生初めてのキスはどのような感覚だったかさえも捉えることなく終わった。それでも僕は歩道橋でバカな真似をするのを諦めて、ひとり濡れて自宅まで帰った。母に叱られても、父に怒鳴られても、僕の耳はその音声を受け止めなかった。シャワーも浴びずに、自室のベッドに倒れこみ、自分の唇の端をさわる。確か、ここに彼女はキスをした。もう少しで唇と唇が触れたのに、その少し逸れた場所で口づけられた。
むしょうに身体が熱くなり、涙が溢れてきた。通りすがりの女からのキスに励まされるなんて、あまりにも簡単にできすぎている――自分で呆れたけど、僕の本能には抗えなかった。
また夜に歩道橋に立っていれば、あの子に会えるのだろうか。
期待しては打ち消しを繰り返して、僕は眠りについた。
次の日の予備校の帰り、前日より早い時間帯に歩道橋に辿り着いた。空がすみれ色に染まっていてまだ夜に変わっていない頃。スマホを取り出してYouTubeで曲を流しながら待つことにした。車道の外側から同じ予備校の女子たちが、それぞれひとりずつ歩いているのが見えた。そういえば、あの女子は同じ予備校だったのだろうか。どこかで僕のことを見ていて、それで歩道橋まで登って僕に声をかけたのだろうか。そう考えるほうが妥当な筋のような気もしたが、それはそれで自惚れているかもしれない。髭を剃ることもしなくなった、冴えない度の強い眼鏡をかける僕を気にかける女子がいるのは考えられなかった。
高校生活も息苦しかったな――maroon5に曲が切り替わり、僕はヴォリュームを上げながら回想をする。かろうじて平均より上はとれたものの、父親の望む5位以内には入れなかった。学年ではなくクラス内の順位でさえも。女子とも仲良くできず、趣味で囲碁をしている男子生徒たちの中に入れてもらったが、それでも僕は誰ともまともに話すことはできなかった。誰にも自分の悩みを打ち明けたことはない。子どもの頃に見ていたドラマの青春生活はみんな嘘で、本当は誰もが鍵を持って――自分だけが覗ける秘密の箱の鍵――仮面を被って生活しているんだ、と思った。そうでも考えなければ、やっていられない。
「……はあ、まじ詰んでる」
思わず声に出すと「何が詰んでるの?」と背後から声がする。振り向くと、昨日の女子。僕はにわかに湧き上がってくる――これはなんだろう、喜びともうれしさとも違う、映画のフィナーレで死にかけた主人公が生還したときのような、驚きと感動?――感情で唇が震えた。「……どうも」
彼女は白い前歯だけを見せるような笑い方をして、片手を振った。今日は左目の眼帯はしておらず、両方の眼が見える。少し寄り目がちだが、黒目の大きい瞳。よく見れば、美少女だった。
「……今日来るとは思いませんでした」
片方のイアフォンを耳から外しながら、思わず敬語になる。もちろん、彼女の顔から目を逸らして、赤くなる顔も背けた。彼女は僕の横に来て、手すりに白い腕をもたれかけ、「来るに決まってるでしょ。約束したんだから」と(顔は見えなかったがおそらく)僕に笑いかけていた。
「……律儀なんですね」
「飛び降りられたら困るもん」
「……ああ、ただの人助けか」
「ねぇ、さっきから顔背けているけど。こっち見なよ?」彼女は僕の肩を揺さぶり、正面を向けさせようとしたが、僕は拒んだ。
「……正直言って、合わせる顔がないです。だって、昨日……あんなことされたし」
顔を俯かせて泣きそうになりながら僕は言った。ならなぜ僕は今日来たのか? さもしい心を見透かされる前に、何か言わなくてはならないと思ったが、何も言葉が出てこない。
彼女は軽く息を吐いたあと、僕の肩に手を叩き、「ちょっと顔を上げてみて?」と指示した。僕は彼女を見ないように目を閉じて、顔だけ少し上げた。その瞬間、彼女の甘い香りがし、唇に柔らかいものが押しつけられた――三秒間。僕は数を数えていた。
「昨日より元気になったね。また来るから」
そう言って、彼女は仕事を終えたみたいにさっさと帰っていった。僕は手すりに背をもたれかけ、口を両手で押さえた。そしてその場に立っていられず、くずおれた。
〇
髭を剃る気持ちになれたのは、何日ぶりだろう。洗面台で剃刀を鼻の下に充てて、滑らした。もともと毛は薄かったから、剃っても剃らなくても父や母に叱られることはなかった。でも、彼女にキスをされるのなら、剃っておいたほうがいい。僕に唇を近づけるとき、彼女の肌を少しでも痛めつけたくない。ここまで考えが回るなんて、よほど僕は彼女との再会に期待している。
でもなぜ僕なのだろう。鏡で剃り残しがないか、顔を左右に振り、自分の顔をあらゆる角度から確認した。彼女が僕を助ける義理などないのだし――たとえ僕が覚えていないだけであったとしても――キスをするなんて、度が過ぎている。それとも、彼女は誰彼かまわず、外国人の挨拶みたいにキスをするような人間なのだろうか。いや、それはちょっとまずい。剃刀を洗面台の淵に軽く叩いて、剃った短い毛を吐き出せさせた。僕は嫉妬を感じていた。
そして今日、僕は暗くなった歩道橋の真ん中にいつものように立つ。ここ数日の間で、夜が来る時間が早くなった。雲に覆われた夜と夕方のあわいの空は、小さな満月を隠していた。
なんで俺にそんなことをするの? こう聞けば、彼女は僕がキスを嫌がっているとでも思うだろうか。そうじゃない。彼女の考えはわからないが、去ってほしくない。彼女がいたずら感覚で僕を救済するためにキスをしたとしても、それは僕の希望となった。認めるのはいささか恥ずかしいが。
歩道橋の階段のほうを見ると、暗闇のなかで彼女の頭が見えた。車のクラクションが鳴ると同時に、彼女のまとまった黒い髪が風に舞う。少し突き出た細い鼻先がひくつき、くしゃみをする。くしゃみをしても顔が崩れないなんて、なかなかできた造りをしているな。
「――待った?」デートの約束でもしているみたいに、彼女は言う。答えたら、まるで期待していたようだから癪で僕は答えなかったが。
「……ひとつ聞いていいですか?」僕は目の前の彼女を恐れながら伺い見る。「あの、こういうこと……、つまりキスですが。他の人にもしているんですか」ついに言えた、と思ったが、彼女の顔は見れず、彼女のジーンズに目をやっていた。
「え? どういうこと?」
「……普通しないじゃないですか。見ず知らずの男に」
「見ず知らずの男じゃないよ。わたしにとっては」
は?――つまり、僕と彼女には接点があった、ということなのか。僕はようやく顔を上げてみた。
「君、わたしの噂に興味がないよね。予備校の人たちはわたしを避けるのに、君だけは避けなかった。それどころか――わたしに挨拶をしたりして」
記憶を探ってみたが、予備校で彼女に挨拶をした覚えがない。そういえば、僕はいつも廊下の床を見て歩いていて、そのせいで人にぶつかって謝るのが癖になっていた。
彼女はまだ赤さが残っている左目に指をあて、「これ、どうしてなったか知っている?」と聞いた。僕は単にものもらいかと思ったが、答える前に「人を殴ったら、殴り返された」と彼女が告白した。僕は瞬時に、身を引いた。
「大丈夫。君には殴らない。愛着があるから」
「……愛着?」
「わたしと同類かもしれないって思ったから。人生に絶望している同志」
僕は苦笑した。「だから救おうと思ったんですか? こんなばかばかしい方法で」
彼女は真顔になり「……君は本当にばかばかしいと思っているの?」と聞いた。
まだ腫れの残る左目が、僕の目をとらえた。車の音が遠ざかり、歩道に並ぶ樹々の葉擦れの音だけがくっきりと聞こえてきた。それは僕の身体を巡る血液の、流れの音に似ていた。僕は彼女に近づき、「今日も絶望しているなら、一緒に夜を越えませんか?」と彼女の身体を抱きしめた。彼女のTシャツを握る手が汗ばむのを感じながら、髭を剃ってきてよかったなと思った。
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<余談>
久しぶりの習作です。着想を得て、すぐに執筆に入りました。男性視点で書くのは好きなほうですが、私が描く男性像はいつもか弱い人が多いです。きっと、作者の性格が表に出てしまうのでしょうね。
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